戦後批評のメタヒストリー 近代を記憶する場

岩波書店2005-08-12 ¥0
購入: 2010-10-21 ¥1500
讀了: 2010-11-16 文学・評論

[投稿日] 2010年10月21日

 書名に言ふ「批評」がほぼ文藝批評でしかない。『季刊批評』→『批評空間』の近代批評史が文學以外に擴げたのが生かされてない。難癖をつけるやうだが、社會派の態度を示す割に文學に囚はれてゐるのは料簡が狹くないか。文藝批評と言っても同時代文學評でなく過去の作家作品を論じたものが主對象だから、畢竟これは文學史論だらう。それはそれで結構だが、但し學術的な文學史研究は除外されてゐる――さうすれば學界批判には手を出さずに濟むし? いや、所詮は近代文學研究なぞ文藝批評の影響下から自立できぬ似而非學問といふことか。そこに屬する著者自身の立場は如何に。
 メタヒストリーと言ふだけあって、ところどころで成程と思ふ概觀はある。例へば、中村光夫(ら)が白樺派をうまく扱へなかった理由とか。いささか疑問だが、江藤淳パラダイムがそんなにも鞏固だったのか(少なくとも著者の世代にとっては)、とか。この著者の本では一番性に合ふ方かもしれぬ。

目次 https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0236540/top.html

選書日本中世史 2 自由にしてケシカラン人々の世紀 (講談社選書メチエ)

講談社2010-06-11 ¥0
購入: 2010-10-16 ¥900
讀了: 2010-10-31 日本史

[投稿日] 2010年10月16日

 自著・自論文の參照が註に多く、これまでの研究を一般向けに噛み碎いた感じ。確かにこの本から遡って讀めば『公共圏の歴史的創造』も解りやすくなる。しかし大事なところは專門論文に讓ってしまった感じも與へる。併讀せざるを得ないのか。 
 だが、近代性をターゲットにする著者の問題設定からすれば、中世史よりも、もっと近世乃至初期近代に踏み込んでよいのでないか。出版と讀書革命とを扱ふ終章をむしろメインとして貰ひたくなる(これは中世人に同情の無い、あまりに近代讀者の讀後感に過ぎるかも)。
 中々さうならないのは、中世史に於る程の研究や論爭の蓄積された厚みが無いからだらうか。實際この本は、戰後歴史學における中世史研究の學史・研究史論としても讀めるところが取り柄でもある。

目次 http://blog.livedoor.jp/ppdwy632/archives/51477192.html

絵を読む文字を見る (アジア遊学)

勉誠出版2008-05 ¥2,160
購入: 2010-10-16 ¥800
未読

[投稿日] 2010年10月16日

109號「特集 絵を読む文字を見る 日本文学とその媒体」、小宮山博史・府川充男・家辺勝文ら印刷史研究者が寄稿。
目次 http://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=10360

現代歴史学入門 (1965年)

有斐閣1965 ¥0
購入: 2010-10-16 ¥500
未読 古書

[投稿日] 2010年10月16日

 III「歴史学の方法(2)――史料の批判と解釈――」―§2.「史料の理解」(堀越孝一)が目當て。科學認識論に踏み込んでゐるのは歴史學者としては珍しい。コリングウッド批判も妥當だらう。

目次 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3049118

日本文学原論 付 日本文藝史全巻索引 日本文藝史 別巻

笠間書院2009-07 ¥16,200
讀了: 2010-10-13

[投稿日] 2010年10月13日

 前半は、文獻學(フィロロジー)、ことに本文批判の研究史を兼ねた概説として邦語では類書が無く、優れて有益。高額だが手許に置きたいもの。
 文學原論總體としては、ニュー・クリティシズムを始めとする歐米の文學理論を博く攝取してゐるにも拘らず、解釋學への入れ込みやうに比して、構造主義への理解が足らない。これではたとひ壽命が延びても未定稿のまま完成しなかったのではないか。
 八八〇ページの大册ではあるものの、文章は明快だから、批評理論の素養がある者ならその氣になれば一晝夜くらゐで讀み了へられよう。

小西甚一『日本文藝史【別巻】 日本文学原論 付 日本文藝史全巻索引』(笠間書院)/パンフレット(簡易版)PDFも大公開!/立ち読みも!

ディルタイと現代―歴史的理性批判の射程

法政大学出版局2001-03-01 ¥0
讀了: 2010-10-10 人文・思想

[投稿日] 2010年10月10日

 えいくそ、役に立たないなあ、もう。まともにディルタイ批判を掲げる者はをらんのか。ディルタイの例の體驗-表出-了解といふ解釋學の概念三點セットや、歴史認識論における自敍傳重視なんかは、その儘だと煎じ詰めれば、例へば文學史を作家論に還元することにしかならぬだらうが。さうではなくて、學問的な歴史學にさへ意圖の忖度や目的論や價値判斷が入ってきてしまふことを事實問題として剔抉し、我々の認識にそのやうに仕向ける制約があることをカントのカテゴリー論の要領で明らかにし、そこから逆に權利問題として歴史認識の可能性の條件を問ふこと、歴史的理性批判乃至歴史的判斷力批判があり得るとしたらその線でやるしかないだらうに。
 ところで、各論の執筆者名を目次にのみ記し、本文に署名がないのはなぜだ?