ディルタイと現代―歴史的理性批判の射程

法政大学出版局2001-03-01 ¥0
讀了: 2010-10-10 人文・思想

[投稿日] 2010年10月10日

 えいくそ、役に立たないなあ、もう。まともにディルタイ批判を掲げる者はをらんのか。ディルタイの例の體驗-表出-了解といふ解釋學の概念三點セットや、歴史認識論における自敍傳重視なんかは、その儘だと煎じ詰めれば、例へば文學史を作家論に還元することにしかならぬだらうが。さうではなくて、學問的な歴史學にさへ意圖の忖度や目的論や價値判斷が入ってきてしまふことを事實問題として剔抉し、我々の認識にそのやうに仕向ける制約があることをカントのカテゴリー論の要領で明らかにし、そこから逆に權利問題として歴史認識の可能性の條件を問ふこと、歴史的理性批判乃至歴史的判斷力批判があり得るとしたらその線でやるしかないだらうに。
 ところで、各論の執筆者名を目次にのみ記し、本文に署名がないのはなぜだ?

理想の追求 (バーリン選集 4)

岩波書店1992-09-24 ¥5,033
讀了: 2010-10-07 人文・思想

[投稿日] 2010年10月7日

 バーリンの多元主義は相變らずだが、「理想の追求」(河合秀和譯)「ジャンバティスタ・ヴィーコと文化史」「一八世紀ヨーロッパ思想におけるいわゆる相対主義」(田中治男譯)、特に第三論文では、ヴィーコ及びヘルダーについて自身の過去の理解の誤り(p.67)を修正して、相對主義と多元論との違ひが強調される。成程さうかもしれぬ。しかし微妙な差であり、理論である以上に實踐に關はるだけに、維持するのが難しからう。よしんばヴィーコやヘルダーの歴史主義的懷疑論が相對主義に陷らなかったにせよ十九世紀以降の思想がさうでなくなったのはバーリンも述べる通りなのだから、もはや歸還不能點を越してしまってないか。相對主義は歴史について非合理的な諸力による決定論を認めるところから生ずるとするのも、再考の餘地あるべし。第三論文は初出が一九八〇年、冒頭で「クリフォード・ギアツ」が引用されてゐるから(邦譯『文化の解釈学』に該當)、ギアーツの「反-反相對主義」論(初出一九八四年)と關係ありさう――『解釈人類学と反=反相対主義』(みすず書房、二〇〇二年)に就くべきか。かういふ同時代や過去との參照關係が判明でないのがバーリン(とその解説者)の敍述の物足りないところ。もっと註釋を!
 ギアーツを含む相對主義論については、浜本満の整理が有益と思ふ。
Cf. http://members.jcom.home.ne.jp/mi-hamamoto/research/published/anti-rel.html
http://members.jcom.home.ne.jp/mi-hamamoto/research/published/relativism.html
 なほ、期待した「ジョセフ・ド・メストルとファッシズムの起源」(松本礼二譯)はさほどでもなく(だって全體主義とか政治問題はノンポリに興味無いもの)、メーストルそれ自體よりも思想上は相容れないヴォルテールと對比した共通性を述べる所に面白味があった。思想内容よりも「シニシズム」(X節、pp.168,169)といふ態度において影響甚大であった、と。

隠喩・神話・事実性―ミハイル・ヤンポリスキー日本講演集

水声社2007-05 ¥2,160
讀了: 2010-10-06 文学・評論

[投稿日] 2010年10月6日

 興味持って讀めたのは「文献学化――ラディカルな文献学のプロジェクト」(乗松亨平譯)のみ。ヴォルフに發する近代文獻學の歴史を顧みるに、シュライエルマッハー→ディルタイの解釋學に至る正統哲學路線に抗してフリードリヒ・シュレーゲル及びニーチェの非正統的な文獻學があったといふ見取圖で、刺戟的ではある。曰く、「哲学者たち」が「テクストを現在の必要に適合させる」ため「アレゴリー的解釈を発明し」た一方、文獻學者は「ロゴスの中継にのみ関わり意味には関与しない」(p.72)。「文献学が、理解する無理解という学問として興った」……「文献学がテクストの意味を理解しない学問として自己規定するのは」(「理解しない」に五字傍點)……「文献学は哲学により形成される。その分身として、理解[二字傍點]を希求する哲学に対する批判として、反省されざるものという哲学に不可欠の層に関する知として」(p.73)。ここでシュレーゲルの「無理解について」(山本定祐譯「難解ということについて」)のイロニー論を持ってくるのは、うまい。また「ロゴスの物質性」(p.73)の傳承を事とする、その意味での文獻學は、殆どメディア論に接近してゐる。でも最後にハイデガーなんかで締め括るのは勘辨な。それでは結局哲學になってしまふ。もっとラッハマンとかシュピッツァーとかアウエルバッハとか檢討すべき文獻學者が居るでせうが。
cf.http://members.at.infoseek.co.jp/studia_humanitatis/RhetoricabookIII.html
http://6728.teacup.com/humanitas/bbs/t2/l50

ヘーゲル以後の歴史哲学―歴史主義と歴史的理性批判 (叢書・ウニベルシタス)

法政大学出版局1994-07 ¥0
讀了: 2010-10-05 人文・思想

[投稿日] 2010年10月5日

 譯者(古東哲明)の〔 〕による補足が必要以上に多い。
 卷末「文献表」に邦譯を補ってあるのは哲學書ばかり、マイネッケすら漏れてゐるってどういふこと? 
 その分析はなかなか讀解の參考になるものの所詮は哲學者の論、哲學史に限定されてをり、歴史家であるブルクハルトやドロイゼンの章を立ててゐるとはいへ、科學史(學問史)に及ばない。「歴史認識の実践〔暗黙裡の行為〕を哲学的に解釈することと、その歴史認識の実践自体との、事柄としては必然的なつきあわせ〔対比〕を、おこなわないままにとどめざるをえなかった。そうしたつきあわせ〔対比〕は、科学史家との共同作業をつうじてのみ、なされるべきだからである」(p.38)。これだから哲學者って……カッシーラーやフーコーの爪の垢でも煎じて飮め。 
cf. 笠原賢介譯ヘルベルト・シュネーデルバッハ「歴史における‘意味’?――歴史主義の限界について――」http://hdl.handle.net/10114/3995

権力の読みかた―状況と理論

青土社2007-07-01 ¥0
購入: 2010-10-03 ¥300
讀了: 2010-11-16 社会・政治

[投稿日] 2010年10月3日

 筆名・萱野三平(なんで?)。
 前半はわかりやすい情勢論、現代時事に關心無いのでふうんさうかと思ふだけ。後半のフーコー論は部分的には拾へる知見があるが、あやふやな抽象性の域で論じてをり、歴史研究の具體性に結びつける必要があらう。