[投稿日] 2010年10月17日
年: 2010年(227件)
機械と哲学 (1972年) (岩波新書)
[投稿日] 2010年10月17日
現代歴史学入門 (1965年)
[投稿日] 2010年10月16日
III「歴史学の方法(2)――史料の批判と解釈――」―§2.「史料の理解」(堀越孝一)が目當て。科學認識論に踏み込んでゐるのは歴史學者としては珍しい。コリングウッド批判も妥當だらう。
目次 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3049118
絵を読む文字を見る (アジア遊学)
[投稿日] 2010年10月16日
109號「特集 絵を読む文字を見る 日本文学とその媒体」、小宮山博史・府川充男・家辺勝文ら印刷史研究者が寄稿。
目次 http://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=10360
選書日本中世史 2 自由にしてケシカラン人々の世紀 (講談社選書メチエ)
[投稿日] 2010年10月16日
自著・自論文の參照が註に多く、これまでの研究を一般向けに噛み碎いた感じ。確かにこの本から遡って讀めば『公共圏の歴史的創造』も解りやすくなる。しかし大事なところは專門論文に讓ってしまった感じも與へる。併讀せざるを得ないのか。
だが、近代性をターゲットにする著者の問題設定からすれば、中世史よりも、もっと近世乃至初期近代に踏み込んでよいのでないか。出版と讀書革命とを扱ふ終章をむしろメインとして貰ひたくなる(これは中世人に同情の無い、あまりに近代讀者の讀後感に過ぎるかも)。
中々さうならないのは、中世史に於る程の研究や論爭の蓄積された厚みが無いからだらうか。實際この本は、戰後歴史學における中世史研究の學史・研究史論としても讀めるところが取り柄でもある。
目次 http://blog.livedoor.jp/ppdwy632/archives/51477192.html
日本文学原論 付 日本文藝史全巻索引 日本文藝史 別巻
[投稿日] 2010年10月13日
前半は、文獻學(フィロロジー)、ことに本文批判の研究史を兼ねた概説として邦語では類書が無く、優れて有益。高額だが手許に置きたいもの。
文學原論總體としては、ニュー・クリティシズムを始めとする歐米の文學理論を博く攝取してゐるにも拘らず、解釋學への入れ込みやうに比して、構造主義への理解が足らない。これではたとひ壽命が延びても未定稿のまま完成しなかったのではないか。
八八〇ページの大册ではあるものの、文章は明快だから、批評理論の素養がある者ならその氣になれば一晝夜くらゐで讀み了へられよう。
小西甚一『日本文藝史【別巻】 日本文学原論 付 日本文藝史全巻索引』(笠間書院)/パンフレット(簡易版)PDFも大公開!/立ち読みも!
歴史の構造 (1940年) (富山房百科文庫〈第109〉)
[投稿日] 2010年10月10日
一九九五年末に買って、讀んだ形跡もある。が、内容全く記憶に無し。
『ディルタイ著作集 第四卷 歴史的理性批判』(創元社、一九四六年十二月。書名はジャケット・表紙・挾み込みリーフレットによる、扉・奧附では「ディルタイ全集」)所收の別譯「精神科學に於ける歴史的世界の構成」を讀みながら對照したが、まるで得る所が無い。獨哲の連中は何を有り難がってゐたのやら。それは時代の限界とするにせよ、いま法政大学出版局がディルタイ全集を延々刊行中なのだが、こんなものに肩入れして大丈夫だらうか?
ディルタイと現代―歴史的理性批判の射程
[投稿日] 2010年10月10日
えいくそ、役に立たないなあ、もう。まともにディルタイ批判を掲げる者はをらんのか。ディルタイの例の體驗-表出-了解といふ解釋學の概念三點セットや、歴史認識論における自敍傳重視なんかは、その儘だと煎じ詰めれば、例へば文學史を作家論に還元することにしかならぬだらうが。さうではなくて、學問的な歴史學にさへ意圖の忖度や目的論や價値判斷が入ってきてしまふことを事實問題として剔抉し、我々の認識にそのやうに仕向ける制約があることをカントのカテゴリー論の要領で明らかにし、そこから逆に權利問題として歴史認識の可能性の條件を問ふこと、歴史的理性批判乃至歴史的判斷力批判があり得るとしたらその線でやるしかないだらうに。
ところで、各論の執筆者名を目次にのみ記し、本文に署名がないのはなぜだ?
文化財の社会史―近現代史と伝統文化の変遷
[投稿日] 2010年10月9日
http://d.hatena.ne.jp/jyunku/20101009/p2
理想の追求 (バーリン選集 4)
[投稿日] 2010年10月7日
バーリンの多元主義は相變らずだが、「理想の追求」(河合秀和譯)「ジャンバティスタ・ヴィーコと文化史」「一八世紀ヨーロッパ思想におけるいわゆる相対主義」(田中治男譯)、特に第三論文では、ヴィーコ及びヘルダーについて自身の過去の理解の誤り(p.67)を修正して、相對主義と多元論との違ひが強調される。成程さうかもしれぬ。しかし微妙な差であり、理論である以上に實踐に關はるだけに、維持するのが難しからう。よしんばヴィーコやヘルダーの歴史主義的懷疑論が相對主義に陷らなかったにせよ十九世紀以降の思想がさうでなくなったのはバーリンも述べる通りなのだから、もはや歸還不能點を越してしまってないか。相對主義は歴史について非合理的な諸力による決定論を認めるところから生ずるとするのも、再考の餘地あるべし。第三論文は初出が一九八〇年、冒頭で「クリフォード・ギアツ」が引用されてゐるから(邦譯『文化の解釈学』に該當)、ギアーツの「反-反相對主義」論(初出一九八四年)と關係ありさう――『解釈人類学と反=反相対主義』(みすず書房、二〇〇二年)に就くべきか。かういふ同時代や過去との參照關係が判明でないのがバーリン(とその解説者)の敍述の物足りないところ。もっと註釋を!
ギアーツを含む相對主義論については、浜本満の整理が有益と思ふ。
Cf. http://members.jcom.home.ne.jp/mi-hamamoto/research/published/anti-rel.html
http://members.jcom.home.ne.jp/mi-hamamoto/research/published/relativism.html
なほ、期待した「ジョセフ・ド・メストルとファッシズムの起源」(松本礼二譯)はさほどでもなく(だって全體主義とか政治問題はノンポリに興味無いもの)、メーストルそれ自體よりも思想上は相容れないヴォルテールと對比した共通性を述べる所に面白味があった。思想内容よりも「シニシズム」(X節、pp.168,169)といふ態度において影響甚大であった、と。