現行法律語の史的考察 (1930年)

万里閣書房1930 ¥0
購入: 2011-09-04 ¥350
未読 古書

[投稿日] 2011年9月4日

 「序」で自ら名を出してゐるやうに、これは或る意味、日本のグリムである(堅田剛のグリム論に曰く「歴史と法と言語のトリアーデ」)。しかしそれ以外は世界的に見ても類本が無いことはこれまた自序に述べる通りなのだらう。法律語とは思へない「ちやきちやき」だの「手を燒く」だの「厄介」だのいふ俗語も入ってゐるのを見ると、嬉しくなってしまふ。佐藤喜代治編『語彙研究文献語別目録 講座日本語の語彙別巻』(明治書院、一九八三年十一月)にも採られてないが、國際日本文化研究センターの『日本語語彙研究文献データベース』で「収録した研究書及び辞書類など」には擧げられてゐる。しかしそれで檢索すると、「ちゃきちゃき」でも「手を焼く」でも「厄介」でもヒットしないのは何としたこと。いづれも第二章第二款第二項第二目第一節「四、普通語となる離脱」に取り上げる語だが、前後の節(の下の單位だが、何と呼べばよいのか)からは拾ってある所を見ると、どうもこの部分だけ故意に採録してないやうだ。一體どういふわけだ、近代語彙ではないからなのかと、小一時間問ひ詰めてやりたくなる。
 Cf. http://gainen.nichibun.ac.jp/main/book

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1281179/184
http://home.q02.itscom.net/tosyokan/itadura.htm

操觚字訣―同訓異義辞典 (1980年)

名著普及会1980-05 ¥0
購入: 2011-09-04 ¥0
読中 古書

[投稿日] 2011年9月4日

 須原屋書店明治三十九年十月再版→明治四十年十一月七版を入手。
 伊藤善韶(東所)序が寶暦十三(一七六三)年、刊本が出たのはやっと明治十二年(~十八年)だが、五十音順排列は稿本通りだったのだらうか。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/902815/418

日本の心理学 (1982年)

日本文化科学社1982-02 ¥6,480
購入: 2011-09-04 ¥500
未読 古書

[投稿日] 2011年9月4日

 『日本の心理学』刊行委員会編。「第四編 城戸幡太郎先生の学風と業績」があり、城戸の八十歳祝賀記念論文集として企劃されながら遲れて米壽記念になったといふ代物。第一編「2 わが国心理学界の諸先達」といふ列傳が目當て。

日華大辞典〈第1-3巻〉

東洋文化未刊図書刊行会1936 ¥0
購入: 2011-08-11 ¥300
読中 古書

[投稿日] 2011年8月11日

 三十萬餘の語彙數を誇り口語俗語をも多く含むことは、當時の國語辭典にも求めて得られぬ特色だらう。和語をどう漢語に變換するかといふ面から見れば俗→雅辭典の機能も幾らか持つわけである。題扉にNipponese-Chineseと列んで Nippon-Manchukuoとも記され、北支・滿洲での利用を想定したもののやうだ。「原型版」とあるので、大陸で發行された版があらう。
 作例が時代色を表はしてゐて、今見ると可笑しい。當然ながら日本帝國主義も露骨だが、戰後臺灣で複刻した際には差し替へたのだらうか。それにしても語義説明の文まで「てゐる」が「てる」と俗語調なのはどうしたことか。
 東洋文化未刊圖書刊行會といふ版元も變な名稱でこれ以外出版した形跡が無いのだが、東京朝日新聞一九三九年四月九日附廣告によると會長は芳澤謙吉。

新たな図書館・図書館史研究―批判的図書館史研究を中心にして

京都図書館情報学研究会2011-08 ¥8,640
ウィッシュ

[投稿日] 2011年8月8日

第5章 川崎良孝「ウェイン・A.ウィーガンドと図書館史研究―第4世代の牽引者―」
初出: http://hdl.handle.net/2433/139417
第6章 吉田右子・川崎良孝「クリスティン・ポーリーと図書館史研究:プリント・カルチャー史の研究」
初出: http://ci.nii.ac.jp/naid/110008593806

Cf. 川崎「最近の図書館研究の状況 : 批判的図書館(史)研究を中心として」
 http://hdl.handle.net/2433/71628

http://toshokanshi-w.blogspot.jp/2011/08/blog-post.html

中国史学史の研究 (東洋史研究叢刊)

京都大学学術出版会2006-03 ¥9,180
讀了: 2011-08-02 歴史・地理

[投稿日] 2011年8月2日

 八百ページを超す大著。第六部「章学誠と『文史通義』」だけで五章百十ページを費やすが、鋭さが無いので詰まらない。學術書は面白味無くても眞面目に研究してればいいと言ふのなら仕方も無いが、知識滿載なのでもない。代表作と代表的人物だけ取り上げて專門論文にしたのを列ねて著書にするやり方は、雜學多識な内藤湖南『支那史學史』と對照的だ。
 見どころとしては、前著『中国の歴史思想――紀伝体考』から引き繼いで『史記』を論じた第二部第一章・第二章か。司馬談・遷父子の秦人たりしことを強調、そこから暴秦論への對抗の意を讀み解くのが創見らしい。
 あと、山口久和著もさうだったが、漢文を訓み下し體で引用するのは結構ながら、專門家には當り前の訓み方もあるにせよ、強引に訓み下してあるやうな難訓字にルビを振らずにをるのは、何か、さういふ流儀なのかいな。

目次 http://honto.jp/netstore/pd-contents_0602655979.html

梁啓超とジャーナリズム

芙蓉書房出版2009-05 ¥6,156
讀了: 2011-08-03 社会・政治

[投稿日] 2011年8月2日

 組版がお粗末なのは版元の所爲にしても、文章のテニヲハがひどい。序文を寄せた師の田村紀雄はじめ有山輝雄香内三郎その他東京經濟大學の先生方は誰も親身に日本語作文指導をしてあげなかったのか? 全部讀み通す氣を無くした。
 事實は澤山調べてゐるやうなのだが、考論は新見に乏しい。一番の目當てである「【補遺二】梁啓超の目録学思想について――分類における虚実関係の変遷に関する考察」を見ても、『西學書目表』における學・政・教の三類についての分析(p.314)は、井波陵一「六部から四部へ――分類法の変化が意味するもの」(冨谷至編『漢字の中国文化』昭和堂、2009.4)が同書を論じたのに比して見劣りがし、理解の淺さを思はせる。
 大體ジャーナリズムと言ふが、これでは木鐸記者の政論ジャーナリズムでありすぎる。天下國家を大言壯語するジャーナリズムでさへ、根は場當りで時好に投ずるいい加減なものなので、梁を「融通の利く性質が彼の長所であるが弱点でもある」(p.108)と評するならば、さういふジャーナリストの性格として解すべきではなかったか。

目次 http://www.fuyoshobo.co.jp/book/b101002.html

読書の学 (筑摩叢書)

筑摩書房1988-06 ¥1,836
¥600
讀了: 2011-07-00 文学・評論

[投稿日] 2011年7月31日

 本文表記は、原漢文の改段した引用文のみ正字體である。一九七五年十月刊初版と本文ページ數は310で同じ、それに中川久定「解説」(pp.311-320)が加はった。中川は書評「吉川幸次郞「讀書の學」――フランス文學の一讀者による紹介と感想――」を『中國文學報』28(一九七七年十月)に書いてゐたが、始めは重複多けれど後半は全く別文。
 http://hdl.handle.net/2433/177335
 初出時の副題「古典の読み方」は第五回以降消えた。歿後の『吉川幸次郎全集 第二十五巻 続補I』(筑摩書房、一九八六年六月)所收は解説が小川環樹、末尾に近藤光男による「編者注」七行を附し、本文は少なくとも誤記一箇所が訂正された(「補注の五」p.255「フィロロギイ」→「フィロロギー」。本書p.305に該當)。これを底本として、ちくま学芸文庫版が二〇〇七年四月に出てゐる。新たに目次を立てて各章の位置を示し、誤記二箇所を更に訂正(「三十九」p.372「よろずの奥義」→「よろつの」、「岩波版全集一巻二四六頁」→「二一六頁」。本書p.293に該當)、「解説」は興膳宏。興膳が「補足」として指摘する二つ目については、本文「十二」「十三」(p.123・132。本書p.93・100該當)中に〔 〕で補記された。從って、テキストは文庫版が最善である。
 https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480090485/

 二〇一一年七月に再讀。二〇一六年一月改めて通讀。
 「はしがき」に「より道は甚だ多く」と言ふ通りで、行きつ戻りつの博引旁證、四年に及ぶ連載の緩徐調(レント)の進行につきあふのは、もどかしくも愉しい。ニーチェ『曙光』序文を想起する――「フィロロギーはすなわちその信奉者に何よりもただ一つのこと、道草を食うこと、暇取ること、落着くこと、緩慢なることを要求する尊敬すべき技術である。[……]よく読むこと、ゆっくりと深く前後に心をくばり、疑わしげに、しかも偏見をいだくことなく広く心の戸をひらいて指先やさしく眼はさとく読むこと、これがフィロロギーの教である」(斎藤忍随「ニーチェとクラッスィッシェ・フィロロギー」『幾度もソクラテスの名を I』p.32所引)。しかしながら本書は、「読書の学」の「自身による実践の報告」(「はしがき」p.1)なるのみならずそこに自家の學を唱道する立言勸説を交へてをり、その著者が主張する段になるとどうも難がある。
 著者の自ら要言して曰く、「私のいいたいことは、要するに、本を読むには、著者を読もうということである」(十二、p.87)。帶文にも掲げられたこれは、理論的に間違ってゐる。本書は劈頭、言語と事實といふ二項對立で考へ出してゐる。「十」p.75に、「言語は事実そのままではない」と言ひ「あるいは言ハ意ヲ尽クサズという指摘に従うならば、自覚された意識そのままでさえもない」と云ふ、そこまでは良い。どちらにも還元できない言語の獨自な存在を認知すべし。だがそこから、「著者の伝達する事実が重要であると共に、事実を伝達する著者その人が重要でないか」(p.75)と持ってゆくのは我田引水の飛躍であった。前後で「著者の意識」とか「個人の内部にひろがるもの」とか言ひ換へてをり、つまり「外的事実」に對比される「内的事実」(一、p.6。十三、p.99。二十、p.148)をも重視せよと説く論理構成であるが、内的であれ外的であれ事實を目指すのだったら、言語は手段でしかなくなってしまふ。事實ではなく言語に即する學問を説く筈ではなかったのか。事實が問題だとしても、「言語の事実、そうした言語であるという事実」(十四、p.103)「言語そのものが、人間の重要な行動であり事実であるという面」(三十九、p.288)に照準すべきであって、それを著者の事實と混同しては困る。テクストを主體に据ゑながら作者の意圖に拘泥する解釋學同樣(#)の錯誤だ。「二十三」(p.168)でも、「著者の名をたしかめ得るさいしょの書物は、ほかならぬ司馬遷の「史記」である。それ以前に発生した書物は、「五経」「論語」「孟子」「老子」「荘子」「楚辞」みな著者ないしは筆録者の名をたしかめにくい」と氣づいてゐながら(cf.「中国文献学大綱」『吉川幸次郎遺稿集 第一巻』筑摩書房、一九九五年十月、p.6)、すぐに「しかしそれは著者の名が知られないというだけのことである。名の知られないという形で、著者はやはり存在している」と強辯して著者性へと回收しようとする。章學誠の「古人は書を著さず」「古人之言、所以爲公」と古今の懸隔を辨へた歴史的認識に比すると(余嘉錫『古書通例』第三章・第十一章、古勝隆一・嘉瀬達男・内山直樹譯注、〈東洋文庫〉平凡社、二〇〇八年六月、p.78・266參照)、いかにも近代的先入觀に囚はれてゐる。
# http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/1959/Review/menninghaus01.htm#sec4
 近代的と言へば、「文学の言語は、その素材とするのが、常に個体である」(二十九、p.213)と言ふのもさうだ。近代文學は個性を描くが古典文學は典型を書いた、とするのが通説だらうに。アリストテレスの權威「個物(個體)は曰く言ひ難し individuum est ineffabile」からの解放、もしくはそれへの挑戰としての近代リアリズム。だからこそ中川久定「解説」で、「ダンテ以後のヨーロッパのテクスト研究に関しては、主要な[三字傍點]効力をもちえない」(p.320)といふ反論があり得ることを慮って豫防線が張られてゐた筈。西洋と違ふ「抽象よりも個体を愛する中国文明」(三十九、p.291)といふ持論に結びつけたかったのだらうが、抽象の對義語は個體と言ふより具體とするのが普通で、論理を有耶無耶にした言葉の濫用である。「二十九」後半で「個を素材とする言語」として例に引くのが司馬遷によって「空言」よりも「深切著明」とされた「行事」の言語であり(p.216以下)、そこから「個を素材とする言語、「行事」を素材とする言語、つまり文学は」(p.219)と等置するけれど、少し前、それは文學といふより「歴史の学」(二十八、p.212)としてゐた筈ではないか。司馬遷は太史公であり、後世同じく空言行事論に據った史學者章學誠もゐた。西洋近代でも歴史主義は個性記述を旨とした。文學者の限界か、史學認識論を疎んじすぎてゐる。中川久定「解説」も註して言ふ、「「読書の学」が自らを対峙させようとするのは、もっぱら歴史学」(p.314)と。殊更に史學を假想敵にする語勢を見せるのは、「事柄の学問と言葉の学問」(一九六六年→『吉川幸次郎講演集』筑摩書房、一九九六年四月所收)といふ對偶圖式に自縛されたと覺しい。隣接する支那古代史研究の疑古派への反撥心も先立ってか、「私はこの世紀の学問の中心をなすのは、歴史学であると観察する」(十、p.72)といふ認識からして時代錯誤であり、所謂「歴史の世紀」はランケ史學の興った十九世紀の異稱であって、人文學上の二十世紀はむしろ「言語の世紀」と後年評される動向があったのに、しかもその言語論に連なる「徂徠、宣長とフーコー、デリダ」を副題とする二論文(のち森本和夫『沈黙の言語』〈UP選書〉東京大学出版会、一九七六年九月所收)を送呈されて「十」冒頭で紹介してゐるのに、それでも感知できなかったらしい。ましてや、歴史の一回性といふ問題は構造主義以降パロールやディスクールといった術語で議論になったことなぞ、言語に執心しても言語學に風馬牛な吉川にとって眼中に無かった。
 「十四」末尾以下「言語は音楽ではない」との斷定が反復されるが「十六」末尾は「言語は全く音楽ではないのか」と反問に轉調し、寧ろ音樂性を強調してゐる。「補注の一」に言ふ、「十五から十六へかけて、言語は音楽でない、としきりにいうのは、かつてある時期の私が、清儒のあるものの影響のもとに、言語をせいぜい音声の面で見るのに傾いたのへの、反省を含む」(p.294)。そこで、音聲のではなく「意味のリズム」と言ひ換へもするけれど、遂にリズムへの執着は讓らぬ以上やはり音樂説に未練がある風だ。讀書と言はむか朗讀の學なり、默讀者は如何とす。そも言語を音聲面に限ったとてそんなリズム(韻律)ばかりで説き盡せようか。結論は、「言語が音声の流れとして必ずもつリズム、それは事実に対する話者の印象を、有力に反映している」(二十二、p.162)といふもの。餘りに感性的、餘りに詩的言語論である。『杜甫詩注』の進行中だったからでもあらうが、このリズム論を詩的・文學的でない散文一般に適用する價値は低さうに思はれる。「今世紀までの中国の文章が、特殊なリズムをこらした文体であり」(三十九、p.290)と省みられた通り、長らく四六駢儷文に制約された(八、p.60。Cf.二十一、p.156)支那特有の事情かもしれない。遺稿となった吉川幸次郎・小川環樹『中国の散文』(中国詩文選1、筑摩書房、一九八四年十月)も讀んでみるか。
Cf. http://www.sociallibrary.jp/entry/4480250018/
 全三十九回中、「二十五」(p.183)から「連載の筆を転じようと思う」とて「私の態度を生み、私が祖述したい過去の学者について、述べ」られる。この後半の方が我が文獻學史への關心に訴へる。『仁斎・徂徠・宣長』(岩波書店、一九七五年六月)に輯めた諸文(吉川幸次郎全集第十七巻・二十三巻所收)の延長上にあるが、特筆されるのは契沖(二十五~二十八)、人間的興味では太宰春臺(三十一~三十三)である。それに比して吉川幸次郎の出自とし範とする筈の清朝考證學は殆んど名前しか出ず(p.184)内實に踏み込まれない。「フィロロギーによるフィロソフィであることこそ、「読書の学」の要諦である」(二十八、p.211)と言ふなら、理論哲學は不毛とされる乾嘉の學でそれに類すると目されるのはまづ戴震(『孟子字義疏證』)、次いで章學誠(『文史通義』『校讎通義』)だらうが、檢討されない。世に戴段二王の學と竝び稱されるうち吉川幸次郎が好んで擧げるのはこの皖派の筆頭たる戴震を除く段玉裁以下の名であるのが常で、本書「補注の五」(p.304-305)にも戴震への不滿が見えた。代りに、『読書の学』の影響下に近藤光男「戴震の經學」(一九七五年初出##→『清朝考證學の研究』研文出版、一九八七年)が論じてゐるが。また、歴史學を單純化して事實の學とし言語の學と對立させてしまふ吉川の構圖では、史學者たる章學誠は島田虔次(「歴史的理性批判――「六経皆史」の説――」一九六九年、「章学誠の位置」一九七〇年、→『中国思想史の研究』所收)によって「考証学の哲学」と呼ばれてゐたのにも拘らず死角になり、その史學論も論及できないわけだらう。歴史的感覺の鈍さを疑ひたくなるのは、支那語での音聲を考察するのに現代音で濟ませて殆んど時代差を考慮しないし(十、p.73)、口語もそんなに變化してないと推斷したりする(四、p.30)所爲もあって、本當にそこまで連續性が信じられるものなのだらうか。それだと、顧炎武や戴震らが苦心し清朝考據學の粹とされる古韻の究明があまり意味無かったことになりはしまいか。
## http://www.spc.jst.go.jp/cad/literatures/1786
 以上は批判に急な僻見と思はれるかしれないが、生前に門下からさへ概略似た不滿は漏らされてゐた。「吉川博士のあまりにも文学的な文学理論、人間性の普遍さを前提にして、何千年も過去の作品をあたかも同時代人であるかのように解釈される博士の方法に、正直な所を云って苛立ちを感じたりします」(小南一郎「若い弟子から」『吉川幸次郎全集 第8巻 月報』)。所感に留めず、前轍を超克するには如何なる學問をなすべきか、一層の論評を後賢に待ちたい。

 「人間性の普遍」、これは自他共に認める吉川幸次郎の理念である。本書「二十八」、和漢の比較も「普遍な人間の事態を立証したいからにほかならぬ」(p.208)と。「先生独自のフィルター、つまり普遍的なものへの志向」(深沢一幸「羽田記念館から」『吉川幸次郎全集 第23巻 月報』)。前掲中川久定書評はその末節「三」(p.153)以下に、吉川が安田二郎『中國近世思想研究』(弘文堂書房、一九四八年二月)に寄せた「序」(改題→「安田二郎氏「中国近世思想研究」序」『吉川幸次郎全集 第十七巻』一九六九年三月)で思想史家が相互に矛盾する言葉に面した場合の態度を論じたのを引く。吉川自身が取る立場は、「たとい「殊途」であっても、やがて「一致」に帰すべきことは、それが人間の言葉であり、同じく善意の顕現である点に於いて、保証されている」、「断片的な言葉どもの奥にあって、それら断片的な言葉、時には相矛盾しさえする言葉どもの、共通の分母となるもの、それは思想というよりも、むしろ心情というべきものであろうが、その心情がいかなる傾斜を示しているか、その探究こそ必要である」といふもの。これに中川は「吉川氏は決してたんなる普遍主義者ではない」と附言した――つまり、留保附きであれ普遍主義であることは否めない訣である。中川の專門であるフランス十八世紀啓蒙主義に似て……? 或いは、共に文明國なりしゆゑ自文化を普遍と信じられた中華思想ethnocentrismか? 吉川本人の言「私はときどきたわむれに、私は二十世紀の学者でなく、十八世紀の学者である、という」(『吉川幸次郎全集』「第十六巻清・現代篇自跋」一九七〇年三月記p.657)は本書「二十五」にも示された通り清代訓詁學・江戸時代古學を祖述する意であるが、それも當初は唐代の註釋學を擧げ、「文学批評家ないしは文学解釈家としての私の方法」は孔頴達『尚書正義』の熟讀と飜譯を通じて學び取ったと述べてゐた(『吉川幸次郎全集』「第八巻唐篇I自跋」一九七〇年二月記、pp.505-506)。「私なんかも、この書物[=尚書]の解釈を多少精読したというところから、書物の言語を分析していく私の方法の基礎をつくってくれたように思うんです」(「中国古典をいかに読むか――五経・四書を中心に――」『新訂 中国古典選 別巻 古典への道 吉川幸次郎対談集』朝日新聞社、一九六九年p.310)と。終章「三十九」(p.291)も『尚書正義』を特に例とする。ここで想起されるのが『顧頡剛口述 中国史学入門』「三 経学・漢学」(小倉芳彦・小島晋治監譯、研文出版、一九八七年一月)で、唐宋の學風の相違を述べるに、唐の經學を代表する孔頴達『五經正義』賈公彦『周禮注疏』『儀禮注疏』は「古文学派と今文学派の論述と論拠を混合して、二者の矛盾を調和させている」とした上で、宋儒が漢唐の古註を廢して新註を作り直したことについて「朱熹の眼力は鋭く、古書中の矛盾を発掘することができた。唐代の大儒は、調和するだけだったが、宋代の朱熹はそのなかの矛盾を見抜き、自分で注を加え直して、新説を創立した」と評してゐた(pp.64-65)。朱子學とても矛盾を矛盾として竝存させぬ強引な合理化があるのはさておき、吉川も曰く「つまり「経」は何れも絶対の道理であり、その間には矛盾があるべきでない、一見矛盾のように見えるものも実は矛盾ではないということを論証しようとする努力」、「そうした論証を結集したものが、唐のはじめに出来ました「五経正義」でありまして」(「支那人の古典とその生活」六、一九四四年初刊→『吉川幸次郎全集 第一巻』pp.318-319)云々。矛盾の扱ひ方を吉川自身の本書で實踐した迹に見ると、『論語』の相反する解釋を融合させようとして「しかく二方向への分裂を可能にするものを、未分のままに包有するのが、この言語の本来であろう」(三十九、p.288。中川書評p.147所引)と説く所に顯著であり、その折衷、唐朝義疏の流儀と見做せよう。一方をのみ排斥する偏狹に陷らぬ包容力は美點ではある。しかしながら、顧頡剛の指摘に俟たずとも當然、統一を期して調停を事とする會通會釋は對立を曖昧にして批判を鈍らせることにもなりがちである。實際、中川書評の取り上げた『中国近世思想研究』(再刊本、筑摩書房、一九七六年一月)は主に朱子を論じた書であって、見たところ定義が矛盾するかの如き理・氣に關する言及を認識論として論理的に整合させてゆく手際に安田二郎の哲學科出身らしい思考力を感じさせてくれたものだが(###)、思想史研究の論理重視に抗する吉川「序」は「思想史の方法であるよりも、文学史の方法である」やうな自家の解釋法に引き寄せて「故安田二郎君の立ち場は、私が右に述べた方法ときわめて近接している」と括ってしまふ。恐らく同書所收「朱子解釋について津田博士の高教を仰ぐ」で津田左右吉「朱晦庵の理氣説について」が朱子の「心理的な思惟動機を摘抉」して「論理を排除し論理に對立するもの」と決めつけたのを批判した邊りに共鳴したと察せられるが、しかし安田の文言(初版p.124→筑摩書房版p.129)に即すと「感性なり感情なりによる裏づけ」を「思想の論理的内實を見出すには不可缺」と言ひ「心理の動きは論理を伴ひ論理と共に動くもの」と云ひ、「我々はそこに意外に鞏固な論理的紐帶を見出す」と飽くまで「論理」を追求する語であった。目指すは心理をも踏まへた廣義の論理(いっそ朱子學流に單に「理」と總稱せむか)であって、それを別立てにし一方的に「心情」と名づけて憚らない吉川「序」とは微妙に齟齬する。「粗心の人は、右の二つの文章を読んで、ほとんど差違に気づかないかも知れない。しかし差違はあるのであり」(十一、p.86)……毫釐の差は千里の謬り、とや。固より朱子はじめ宋明理學は漢學を稱した清朝考據學の排せし所、その風氣に倣った吉川も『朱子語類』はよく讀んでも主著『四書集注』はなじめず退屈であった由にて(『吉川幸次郎全集』「第二巻中国通説篇下自跋」一九六八年十月記、p.602・603)、なれば安田遺著「序」には「そもそも私は朱子については、君の研究を充分に批判するだけの知識に乏しく」と一言斷らずにをれなかった、にも拘らず、自己を以て解するあまり他者を他者として遇しない嫌ひがある。「学問をなさるときの注意として申し上げたいのは、自分と他人とは違うということであります」(「学問について」一九四八年→『吉川幸次郎講演集』p.335)と訓示して「人も自分と同様に考えていると思って即断してしまう、考えが自分中心になりやすいという、非常に悪い癖」を戒めるは是なり、然るに、その對策を「その人の立場になって考えてみる必要」(p.335)から「自分のこととして考えること」(p.336)と言ひ換へてゆくにつれ、「自分の心が広くなり、また高まる」(p.336)といふ自我擴充に他者認識が掏り替はり、ひとたび得た自他彼我のけぢめは再び失はれる。「人間はだいたい同じように考えるべきだという信仰のようなものがございまして、だから、書物を読むときに、自分のものとして読む、人さまの書物としては読まない」(吉川幸次郎・ききて高橋和巳「人間とは何か――文学研究への私の道――」大河内一男ほか『学問のすすめ1 学問のすすめ』筑摩書房、一九六八年五月、p.84)。これでは差異の辨別に細心とは言はれまい。たとひ「斉一の上に派生する不斉一への敏感」に留意しようと所詮は「みな一物の顕現であり、おのずからにして統一に向わんとする」(吉川「序」)と言ふのに傾く次第で、延いては、各時代の特殊性を輕視するとの批判を受けても「しかしけっきょくは、やはり、ちがった環境、ちがった生活条件の中にいた人人が、それにもかかわらず、われわれと同じ心理を表白するのに、ひきつけられざるを得ない」(「歴史学のしろうととして」一九六八年→『吉川幸次郎全集 第二十巻』p.172)と開き直った姿勢に通じ、歴史を變化よりも持續と觀る傳統志向とならう。「伝統の連続性の自覚は、吉川においては、地域的制約を超えた人間的共通性の意識と相互に関連しあう。[……]吉川における儒教的普遍主義と呼ぶべきものにほかならない」(中川久定「解説」p.320)。その傍ら、程朱の所謂「理一分殊」に照らしながら「ものの多様を許容するという精神」(「中国文化への郷愁」一九四七年六月初出→『吉川幸次郎全集 第二巻』一九六八年十二月、p.367)や「個々の事実をこそ、丹念に熟視すべきであること」(「私の信条」一九五〇年→『吉川幸次郎全集 第二十巻』一九七〇年十一月、p.57)が説かれもし、「分裂ということのみが、すなわちものすべての斉一な性質であるのかも知れない」(「「文明のかたち」序」一九六八年四月→『吉川幸次郎全集 第二十巻』p.406)と思案されもする。いかにも普遍への信頼ゆゑに安んじて途を殊にする個々物々へ專心することもできるにしろ、但し、普遍主義の得てして特殊を疎略にし個別具體への肉迫を阻碍するを如何せむ。これは史學史上、フランス中心の十八世紀啓蒙主義に對して個別性・個體化を掲げたドイツ發の歴史主義が問題とした所であった。
### http://www.sociallibrary.jp/entry/B000JBPLE0/

 「総括的抽象的な哲学の言語」(二十九、p.216)である「空言」よりも「個個の「行事」を叙べる」「個別の言語」(二十八、p.212)に就くを善しとする學風を、吉川は隨所で説いてきた。「体系をあらわに説くこと、それは昔の支那の学問の、従ってまたその影響下にあった昔の日本の学問の、好まぬところであった。体系を断片的な叙述のうちに、ことに多くは古書の注釈のうちに、ほのめかし、ひらめかすことこそ、昔の学問の礼儀であった」(「翻訳の倫理」三、一九四一年初出→『吉川幸次郎全集 第十七巻』p.532)。ここで一視同仁扱ひされてゐたのが、「学問のかたち」(一九四六年初出→『吉川幸次郎全集 第十七巻』)では「日華両国の学術」の「顕著な差違」として別たれる。即ち、「一二世紀前の日華両国の学術は、きわめて相似た形貌を呈する」とは言へ、仁齋・徂徠・東涯・眞淵・宣長ら日本の學者は「古典を媒介として得たその世界観なり人間観の全貌を、集約的に語った書物を、それぞれに残している」(p.209)。「そうした著述のなかには、おおむねその人の学問観、従ってまたその人の学問の方法論が、みずからによって説かれている。」「ところが、清朝の学者は、むしろそうでない」(p.210)。「著者自身は、それをまとまった形では語りたがらぬのであり、個個の事実の説明に托して、閃光のように、ひらめかせ、ほのめかすに過ぎぬ」(p.211)。「ただしかしその流弊、すなわち一般に対する弊害は、或いは中国風の学問の方が、すくないのではあるまいか」(p.212)。「それぞれの個人が、その学問をその一生のうちに完成しなければならぬとする意識は、それほどに強力でない学者にも、終点への焦慮をかり立て、主観的な粗雑な議論、すなわち仁斎や戴震のいわゆる「意見」を、しばしば提出させることになる」(p.213)、と。斯く支那贔屓な日本人儒者が皮肉にも晩年の『読書の学』では、章句個々に訓詁註釋してみせた實例なるに留まらず曾て危懼した日本學者流に「その学問を簡単な言葉に凝集させた著書」(p.209)でもあらうとし、そこここで「意見」を開陳してゐる。その弊や、既に審らかなり。言ふ如く「その実践がもっとも高まった時点でも、その方法についての理論的説述は、中国には却って案外に乏しく、日本にある」(一、p.8)にしても、悠揚なる支那よりは總論通論好みらしい日本の學問とて兎角西洋に比しては理論が劣るとされるから、その宿弊が露呈した態である。畢竟、哲學を「空言」扱ひして正面から論究することを忌避してゐては、理論的言語が精緻に錬磨されず、論述の粗漏は免れまい。思辨への志向を缺くわけでなく、「多様な個別者への注視はこれまた当然にもその多様を整理するための包括的な原理ないし法則を求める傾向を持つものである」とて吉川の「哲学好み」が力説されもするものの、「もっともこの哲学[二字傍點]ということばはカッコ付きである」(金谷治「吉川先生の哲学[二字傍點]好み」『吉川幸次郎全集 第12巻 月報』)。隱約の間に祕められた體系が個別實事の研覈において窺はれるのを哲學と呼べば呼べようけれど、それを哲學論そのものとして前面に押し立てる言語の務めが果されなければ、「あまりにも漠然とした、散漫なものであるために、テーゼは出たままで、しぼんでしまう」(「学問のかたち」p.214)。フィロロギーのフィロソフィー、個別的言語と必ずしも背反しない纖細な哲學はあって、それはやはり思考を言葉にしてゆくことでしか明らめられない。蓋し「言は意を盡さず」と雖も、なほ「辭を繋けて以て其の言を盡」さざるべからず――共に易經「繋辭傳」上篇が出典だが、本書「三」以下で前段の言語不信の條のみ再三再四引用する癖に、續く後段で反轉するのは默過して遂に言ひ及ばずじまひ。本書「四」が特に據った孔頴達『周易正義』を繙けば「繋辭可以盡其言也」と釋文があるのにも知らぬ振り、私意に寄せた斷章取義である。まだしも舊稿「中国文章論」(一九四四年初出→『吉川幸次郎全集 第二巻』p.11)は一往後段も共に掲げてはゐたが、既に主眼は「文章なり言語なりの微力さ」「言語というものが、暗示でしかあり得ないという認識」にあった。これが魏晉時代より言語哲學の問題を成した爭點であること、蜂屋邦夫「思惟と言語の間――言尽意論をめぐって――」(初出「言尽意論と言不尽意論」一九八一年####→『中国の思惟』法蔵館、一九八五年九月所收→改題『中国的思考 儒教・仏教・老荘の世界』〈講談社学術文庫〉二〇〇一年)に詳しい。吉川も「契沖阿闍梨と私」(一九七五年四月初出→『吉川幸次郎全集 第二十三巻』一九七六年四月)では「「易」の文脈は、むしろその次の句、繋辞以尽其言[訓點は略、繋辭焉以盡其言の焉字脱は原ママ]云々を重点とするといい、言こそ意の表現であると論ずる条」(p.26)を『萬葉代匠記』「惣釋」に讀み取ってをり、非を悟ったか。連載最終回「三十九」(一九七五年四月初出)の終盤になって、同じく契沖の「初稿本「代匠記」の巻頭「惣釈」に見える語」に據った「儒仏の「奥義」、歌の「奥義」、みな言語によってのみ顕現されるのであり、言語を離れたところに「奥義」はあり得ない」(p.293)云々を書き入れたのは、隱微な修正のつもりだったかもしれない。だがそれは專ら聖なる言語を受納する「誠心誠意の読書のいとなみ」にのみ繋げられ、そのどう讀んだかを自ら書き記す作文の言語までを講ずる用意は見られない――そこにこそ哲學することの奧義もあらうものを。結句本書にあっては、連載後に追記した末尾「補注の五」に解説する「この書物の内容のおおむねを五言古詩にしたもの」でも言語文章の限界ばかりに字數が費やされてをり、うち「涯り有るもて涯り無きを逐う/殆い哉」(p.307)は『莊子』内篇・養生主第三に典故を持つのが、序盤「二」で莊子を引く所から訓詁を始めたのと呼應して、儒者の言葉にも似合はず道家に靡く感を與へてしまふ。儒典にいへる有り、「言は以て志を足し、文は以て言を足す」と(『春秋左氏傳』襄公二十五年、『孔子家語』卷九・正論解四十一。前掲「中国文章論」pp.43-44所引)。語り得ぬものを詩に象徴させようとする前に、克明な散文をこそ。さてこそ「私が私の日本語に欲したことは、何よりも明晰であった。香気ではなかった」(「私の著作の方法――一つの回顧――」『吉川幸次郎全集 第二十巻』p.415)と言ふ素志にも悖るまじ。
#### http://hdl.handle.net/2261/2193

 本書に先立って著者が同樣の主張を述べたものは、「はしがき」で「読書力について」(『吉川幸次郎全集 第二十巻』)に觸れ、「二十五」で全集第一巻自跋に言及したほか、「補注の四」で既刊全集所收六篇及び『仁斎・徂徠・宣長』と對談一篇とを列擧してゐる。中で早くに最も意を盡したのは、「本居宣長――世界的日本人――」(一九四一年初出、『吉川幸次郎全集 第十七巻』所收)と見た。國學手引書『うひ山ふみ』(宇比山踏)における「言(コトバ)と事(ワザ)と心(ココロ)」の三分法(『古事記傳』「古記典等總論」だと「意ココロと事コトと言コトバ」)から「言」への傾注に到る理路を承け繼いだことが、看て取れる。但し吉川に説かせると言・心が癒着して「言」對「事」の二元論に縮約しがちであり、且つ、ワザと訓じられた「事」を專ら事實と解して行動として捉へる觀點が弱いため言語行爲論(H・フィンガレット『孔子 聖としての世俗者』〈平凡社ライブラリー〉一九九四年六月、參照)には屆かないけれども。初めて宣長を讀んだのは一九三八年に偶然の由なれど、「水野清一君挽詞」(一九七三年初出)には、北京留學中一九二九年より三一年まで同宿であった水野らと「方法論」について「盛んに議論をした」ことを「文献は事実の記録としては信ずるに足らぬ場合も、文献がそう書いているという事実、それは厳然として存在すると、今日もなお考えつづけていることを、今よりも稚拙な論理でいい」(『吉川幸次郎全集 第二十三巻』p.636)と追懷し、加へて「水野先生語録」として「段玉裁という人も、やっぱり本居宣長ほど偉くはないようですね」(p.637)ともあるので、讀まぬ前からそれで宣長の名を氣に懸けてゐたのが萌芽となったかに思はせようが、『読書の学』連載中の回想(一九七二年稿)なので、遡って後知惠を投影した過去でありすぎるかも。先に顧みて曰く、「このことについてさいしょの啓示は、唐人の「五経正義」の耽読にあった。方法についての自信は、本居宣長の「うひ山ふみ」が、私の如き方法の存在理由を、明確に説くのを読むことによって、強められた」(『吉川幸次郎全集』「第一巻中国通説篇上自跋」一九六八年八月記、p.709)と。その一方、「方法は唐人の「義疏」からも導かれる部分があること、八巻唐篇Iの自跋でいうごとくであるにしても、より多くより直接には、同種の方法がもっとも純熟した清朝の学に出る」(『吉川幸次郎全集』「第十六巻清・現代篇自跋」一九七〇年三月記、p.657)とも自任し、「十八世紀清儒の徒」(「第一巻中国通説篇上自跋」p.706)とも自稱するけれど、その割には唐代『尚書正義』や本朝『うひ山ふみ』やに比べて存外に清代考據家の敍述に徴して漢學の方法を詳説したことが無いのから推して、疑心を以て睨めば、どうも清朝流の文獻學にそっくり忠實な傳習と云ふより實は我知らず持ち前の性分に合ふ面を取捨しつつ受け容れてゐた所、それを後年たまたま囑目した同邦人宣長著を鏡として自己理解を得たのではなからうか。ナルキッソスは自身の鏡像をば他者と誤認したが故に不覺にも自己愛に陷った。支那人になり切らうとし、戰時中「外国研究の意義と方法」(一九四四年稿→『吉川幸次郎全集 第十九巻』一九六九年六月、p.88)で「相手の中の日本的なもののみを重視する」偏向に諫言した吉川にして、なほ我有化(appropriation)を免れなかったとすれば……餘りにアイロニカルな? 更に想到すれば、「私の「読書の学」は、かく中国では「経学」の名で、もっぱら儒家古典を対象として生まれた方法を、他の対象にむかって用いようとするにほかならぬ」(三十九、p.291)と結論するのは、既に「二十九」以下に「読書の学」が「もっとも施さるべき対象」は「文学の言語」であると高唱したのに照應し、それより先、定年前の置土産である長大論文「銭謙益と清朝経学」(一九六五年初出#####→改題「銭謙益と清朝「経学」」『吉川幸次郎全集 第十六巻』所收)の「結語」で「清儒の方法は、思想史の研究法としては、おそらく不充分である。哲学の書、思想の書に向かって施す方法としては、おそらく十全でない。しかしもしこれを文学の書に移し、文学研究の方法、ことに詩を研究する方法として用いるならば、将来にわたっても、あるいはまた中国以外の文学の研究に対しても、価値をもつかと、思われる」(全集p.134)と揚言したのの系を成すものながら、しかし惟ふに、論文標題中「経学」二字が全集收録に際し括弧附きにされたのは尋常の經學の枠を破る發言なるを示すかの如く、昔時は六經皆史と斷ずるすら大膽であったのに「清朝の「経学」は[……]「経書」の文学性を重視し、それへと傾斜する」(仝p.134)なんて言ふのは五經を聖典と尊ぶ儒教經學の徒からすればとんでもない冒瀆の筈であって、支那の知識人は儒者たる限り恐ろしくて言ひ出せることでなかったらうから、これまた、和歌を何より愛重した宣長が倫理道徳を超えた文學主義を開いた姿勢に似通ひ、それに自づから導かれた面がもしやありはしまいか……とも猜せられる。「文弱の価値――「もののあはれをしる」補考――」(一九七八年初出→『吉川幸次郎全集 第二十七巻』一九八七年八月)も傍證になるか。
##### http://hdl.handle.net/2433/72931
 なほ上記の自己參照に漏れた先行文獻として、古くは「経学について」(一九四六年→『吉川幸次郎講演集』)があった。「附記」に「経書の言語の背後にある心理とは、編纂者孔子の心理というよりも、経書の言語そのものの持つ心理のことである」(p.228)と書き直してゐるのが、本文でひとへに「書き手、話し手の心理」を目標としたのとは違ふ考へ方が萌してゐるかにも見え、考へさせられる。さらに『読書の学』初出と同時竝行したのでは、それより前後長きに亙った連載「鈴舎私淑言――宣長のために――」(『吉川幸次郎全集 第二十七巻』所收)の特に初回と最終回とが關聯し、その後これを舊文諸篇(全集十七巻・二十三巻所收)と併收する『本居宣長』(筑摩書房、一九七七年六月)が出、その「あとがき」(→改題「「本居宣長」あとがき――宣長と私――」『吉川幸次郎全集 第二十七巻』)中には吉川が取り分け推服する書としながら名のみ擧げるばかりであった段玉裁『古文尚書撰異』より一節を要約しつつ具示してゐるのが珍しい。清朝學者著の行文に立ち入っての論は吉川に期待しても殊のほか乏しく、やはり段玉裁の「戴東原集序」と同著『説文解字注』中「人」字の註文とが未完の口述筆記「清朝の学問――「清代詩文」序説」(『吉川幸次郎遺稿集 第一巻』)で取り上げられた以外は、「銭大昕と道蔵」(一九六八年稿→『吉川幸次郎全集 第二十二巻』一九七五年九月)くらゐ、いづれも紹介といったところでその方法論の抽繹にまでは及ばなかった。しかしそれより何より、最も充實して本書の姉妹篇にも擬せるのは、百六十ページに上る座談「中国古典をいかに読むか――五経・四書を中心に――」(『新訂 中国古典選 別巻 古典への道 吉川幸次郎対談集』朝日新聞社、一九六九年四月)であり、この本で説く學問論の大體は既に持論となって出揃ってゐる上、却って『読書の学』では見失はれた思想史に資する識見さへ拾ひ出せる。併讀して興あり。
Cf. http://www.sociallibrary.jp/entry/B000J942Z6/
 考證學のモットー「経ヲ以ッテ経ヲ証スル」(二十六、p.192)に倣ひ、吉川幸次郎著のテクストを吉川自身の言葉に照らして吟味するには、經を以て經を反證することをも伴はなければ盲從に流れる。豫定調和の吻合に溺れず扞格牴牾する異同を注意深く讀み取ること、文獻そのものに内在する矛盾を掘り起こし衝突させ、それら自己同一性から逸れる言表の葛藤や分散を如何に讀解できるか勘考してゆくこと、これ即ち文獻學的批判であり、そこから、やうやく考證が始まる――單なる實證に留まらず論證を兼ねた思考力の試練が。斯くて讀書の學は批判的知性を養ふ。
Cf. http://www.sociallibrary.jp/entry/4902590220/

 餘談に、瑣末な文獻考證を。
 「九」p.67、歐陽脩の下で『新唐書』の執筆擔當した宋祁のこととして、奔馬が犬を蹴殺したのを目撃してどう簡潔に記述するかと競ったといふエピソードを出すが、「これは有名な逸話であるのを、何の随筆に見えるのか、いまどうしても思い出さないが」と出典不明にしてゐる。實はこれ、逸馬殺犬として宋祁でなく歐陽脩や他の人の逸話ともされる話型に屬し、鈴木宏宗「中国人の逸話をしらべる・逸馬の逸話」(『文献継承』19、金沢文圃閣、二〇一一年十月######)にも引かれた通り、「沈括『夢渓筆談』卷十四、その平凡社東洋文庫版第二卷の訳註には類話として『唐宋八家叢話』『捫虱詩話』を挙げてある」。「捫虱詩話」は「新話」の誤。
###### http://kanazawa-bumpo-kaku.jimdo.com/%E6%96%87%E7%8C%AE%E7%B6%99%E6%89%BF-20%E5%8F%B7%E8%A8%98%E5%BF%B5/
 ところで、ずっと後の「三十七」p.276以下に陳善『捫蝨新話』が引照されてゐる。正にこの逸話を載せる隨筆書であったが、吉川は別の箇所を用ゐただけで、第九回での出典の不備を補足してない儘なのは氣づかなかったらしい。
 なほ同じ例話が倉石武四郎講義ノート『支那文藝學』(一九四四年)140~141コマにも見え、三種の典據も記してあったのはさすが。
http://picservice.ioc.u-tokyo.ac.jp/01_130112~漢籍知識庫/110330~倉石武四郎博士講義ノート/050160~050160支那文藝学/00~html/?start=130
 尤も、文章書には良く引き合ひにされる話らしいが。「陳望道《修辞学発凡・第四篇消極的修辞》訳注」(『福岡大学研究部論集 A 人文科学編』十卷三號、二〇一〇年十一月)參照。
 http://www.adm.fukuoka-u.ac.jp/fu844/home2/Ronso/RonsyuA/Vol10-3/Vol10-3mokuji.htm
 http://www.adm.fukuoka-u.ac.jp/fu844/home2/Ronso/RonsyuA/Vol10-3/A1003_0029.pdf

輸入学問の功罪―この翻訳わかりますか? (ちくま新書)

筑摩書房2007-01 ¥0
購入: 2011-07-30 ¥200
讀了: 2011-07-31 哲学・思想

[投稿日] 2011年7月30日

 對象は專らドイツ哲學で、從って(?)日獨の教養主義批判でもある。が、新刊當初に立ち讀みで目を着けた時ほど面白く思はれなかった。新しく啓發されるところが少ない。買はずとも借覽で濟ませればいい本だったかも。