明治大正言論資料 (20) 明治新聞雑誌関係者略伝

みすず書房1985-11 ¥8,100
購入: 2009-00-00 ¥5250
未読 社会・政治

[投稿日] 2009年10月29日

 『明治新聞雑誌関係者略伝』、奮發してやっと買ったが……早まったか。條野採菊(山々亭有人)みたいな初期新聞界の著名な人が立項されてないのは案外だ。それよりも有名人の項を見ると、なほ失望する。西田長壽はなぜこんなに遠慮しいしいでないと書かうとしないのだらう。しかしこの人名事典の本領は、他では引けない無名の人を拾へることにあるから、使ひこなすにはこちらに素養が要るだらう。その手懸りとクロス・レファレンスのためには、やはり索引つけてくれなくては。

http://www.msz.co.jp/book/detail/00950.html

西洋古典こぼればなし (同時代ライブラリー (238))

岩波書店1995-10-16 ¥1,049
¥0
讀了:  評論・文学研究 ★4箇

[投稿日] 2009年10月29日

 收録文中「音読と黙読――歴史上どこまで確認できるか――」は、書物史に關心ある者にとりて必讀なり(初出の註を省けるは遺憾なれど)。
 また「二人の古典学者について」等、文獻學者A・E・ハウスマン(詩人としてではなく)に就ての所述が殊に興そそる。前著『語学者の散歩道』(研究社出版、1991)のハウスマン評と併せ讀まば更に興味増すべし。おゝ偉大なる學匠詩人ハウスマンよ……ホンマ難儀なお人やなあ。
 この愛すべき畸人と對比せられるもう一人の古典學者ギルバート・マリや、延いてはマリが傾倒せしジェーン・エレン・ハリスンらケンブリッジ・リチュアリストへの批判には專門柄傾聽すべき言あり。附記して參照を請うてゐる「悲劇の起源は祭祀か」(『現代思想』一九七三年八月號)も、讀まいでおかれうか。本邦にても福田恆存から西郷信綱まで依據せる『古代藝術と祭式』が誤謬學説なりけりと知られる。
 文體は平易にして考證癖を含みつつ自づから諧謔味を漂はすあたり、手に入ったもの。著者も自覺の上ならむ、師・田中美知太郎の著を英譯する話や「ラテン語版『クマのプーさん』など」は文體論として讀むも可なり。但し後者にて指摘せられたる通り、ラテン語はおよそ樣々なることが言ひ得るも中に言ひにくきこともあり(p.173)とせば、その傳にて同樣に、柳沼の文章は趣味あれどもこの文體にては論じ切れぬことも何かあるべし。それは何か? 

 拙文「校正癖 あるいはコレクトマニア綺譚」で參照した。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/1959/GS/correct01.htm#sec2

本を読むデモクラシー―“読者大衆”の出現 (世界史の鏡 情報)

刀水書房2008-03 ¥0
讀了:  人文・思想

[投稿日] 2009年10月29日

淺い。さういふ讀者設定なのか?
 フランスで瓦版に當るものはカナール canardとも呼ばれ、p.90以下に取り上げてゐるが、しかしそこで「「カナール」という名前自体、一九世紀になって付けられた蔑称」(97ページ)とするのは疑義あり、平井隆太郎「噂の病態――「新聞の鴨」について」(平凡社『月刊百科』一九八二年二月號「特集 噂」)はドイツの新聞學者に據って十六世紀から見られる用法としてゐた。canard(鴨)の語源説も、宮下が紹介するものより平井が述べるグリムの辭書の説の方がドイツ語Zeitungsente(新聞アヒル=誤報、虚報)との對照も含めて説得力があるやうに見受けるがどうか。

目次 http://www.tousuishobou.com/sekaishinokagami/503-9.htm

成島柳北研究

ぺりかん社2003-05 ¥5,184
讀了: 2009-00-00 ノンフィクション

[投稿日] 2009年10月29日

 從來の研究が「人物批評」や「作品批判」に留まってゐたので「実態」の解明を行ふと。その言や善し、手堅い歴史學的研究として評價せねばなるまい。が、讀んで面白いものではない。對象が面白くなければ仕方無い? しかし、實態とは、社會活動や政治的影響のことばかりでいいのだらうか。柳北の書くものも文飾を取っ拂って内容だけ忠實に拾ひ上げたら存外常識的で詰まらないが、それでは彼一流の奇文を讀んだことにはなるまい。同樣に、屈折拔きに平板化した敍述で事實を綴らうとした執筆姿勢に問題があるとしたら? 眞面目な研究者に求める方が無理にせよ。

読売雑譚集―明治十四年一月‐十七年十一月

ぺりかん社2000-03 ¥4,968
讀了: 2009-00-00 文学・評論

[投稿日] 2009年10月29日

 それぁ別號調べも一往すべきことではあるが、どうして柳北執筆分に限定して抽出したがるのかなあ。雜誌や新聞のコラムは集合知の産物なんだから、雰圍氣を味はふためにも全部載っけて、柳北らしきものだけ註記しておけばいいんだよ。脱亞論は福澤諭吉の書いたものでないとかの、個人全集收録範圍を切り詰める議論と同根だね。それと、これまでの「反近代」的柳北觀を是正して啓蒙主義者の面を強調する山本芳明の解説は穩當なのだらうが、面白くない。いっそ木村毅みたいに柳北は常識的不平家で凡俗の市井人に過ぎないと言ひ切るのだったら、話が彈むのに。

目次 http://www.perikansha.co.jp/Search.cgi?mode=SHOW&code=1000000908

光芒の大正―川内まごころ文学館蔵 山本實彦関係書簡集

思文閣出版2009-02-28 ¥5,400
讀了: 2009-00-00 ノンフィクション

[投稿日] 2009年10月29日

退屈。發見無し。

目次 http://www.shibunkaku.co.jp/shuppan/shosai.php?code=9784784214594