[投稿日] 2015年9月26日
「特集:フーコーの遺したもの」
荒川幾男「フーコー――思想史的スケッチの断章」
野村英夫「bとpの間」
田村俶「賢者としての歴史家の死」
目次 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/7971339?tocOpened=1
[投稿日] 2015年9月26日
「特集:フーコーの遺したもの」
荒川幾男「フーコー――思想史的スケッチの断章」
野村英夫「bとpの間」
田村俶「賢者としての歴史家の死」
目次 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/7971339?tocOpened=1
[投稿日] 2015年9月12日
著者名は標題紙では小書きしないが「譯者序」p.3の表記に從った。函では「J・A・シモンヅ」、本體背には「シモンヅ」とのみ。同じ田部重治譯で同書名のペーター著があるので紛らはしいが、本書は「大英百科全書のために書いた「ルネッサンス」と云ふ一篇」(p.5)の飜譯である由。
奧附に「昭和九年一月十二日初版千二百部發行/昭和十四年十月二十五日二刷五百部」とあるも、間に一九三七年三月新裝版があったらしい。
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BA38690696
また、「ダンテとプラトンとの愛の理想」は副題といふより附篇の題であるが(田部譯『ダンテとプラトーとの愛の理想』人文書房、一九三〇年十二月、の改譯收録か)、圖書館目録には採られてない。函にのみ標記され本體に記載無き故か、或いは初版・新裝版には無かった附加かもしれない。
卷頭に「譯者序」(昭和八年十二月、pp.3-6)あり。
目次 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1237714?tocOpened=1
異版
『歐洲文藝復興史』人文書房、一九三一年二月 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1260196?tocOpened=1
『文藝復興 他一篇』〈改造文庫〉改造社、一九四〇年二月 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1689517?tocOpened=1
『文藝復興』日本文庫、一九四八年四月 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2993416?tocOpened=1
他に増田重光、斎藤祐蔵による譯もあり。
[投稿日] 2015年8月15日
學史早わかりの足しに。
Cf. 『ジュリスト』「400号記念特集 学説百年史」 http://mediamarker.net/u/bookish/?mid=2288840
「編集後記」(p.248)に戒能通孝が「法律学の研究状況」を危懼して曰く、「公表されているところをみると、教科書、コンメンタール、法学教室等々の、ある意味できまりきったものが圧倒的に多数であって、本来新らしい思索が盛れない発表形式に封じこめられているような気持がしてならない。」「それらの名前を尊重するかぎり、あるいは実務家向きの、あるいは学生向きの解説であって、解説以上に出ることができないのが原則である。いいかえれば解説水準で立案する以上の能力がない編集者の計画にひきまわされ、量的には多くの成果が生まれているけれども、質的には独創的な仕事をする時間が食われ、ともすれば新らしい研究が阻害されているのではあるまいか」。確かに法學の門外漢から見ると、他の學問分野より學會誌・紀要に載るやうな研究論文の比重が低くて概説書や講座ものに新説が發表されることが多い風で、文獻參照系統に違和感を覺えてゐた。卒論の無い學部と揶揄される法學部の、實學なるがゆゑの偏向か。
[投稿日] 2015年8月15日
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BN12602673
[投稿日] 2015年8月7日
最高裁判所司法研修所圖書室舊藏、裸本。
書名は、本文ページ冒頭の内題のみ「Edmund Burke 研究」と表記。
硬派な學術書の體裁ながら、平泉澄「序」はじめアンチ革命のためにする偏見が露骨だが、脚註の横溢ぶりを珍として買ふ。
目次 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3458728?tocOpened=1
[投稿日] 2015年7月25日
小野清一郎『日本法理の自覺的展開』(有斐閣、一九四二年十二月)に對抗して、主にドイツ法・フランス法との比較法的研究によって「明治以後の法律及び法律學の發達」を綴った法學史。二〇〇九年にオンデマンド版の再刊あり。
目次 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1045283?tocOpened=1
[投稿日] 2015年7月3日
Phaenomenologica 25
メルロ=ポンティに見られる讀解法を評して曰く、「フィンク流に言うならば、相手の論拠で用いられている「操作概念」を、求心的な読解を介し「主題概念」へともちきたらす」(「序 メルロ=ポンティ〈の〉読解 レクチュールとエクリチュールのはざま」p.14)――出典註を附さぬが、オイゲン・フィンク「フッサールの現象学における操作的概念」(新田義弘譯、新田義弘・小川侃編『現象学の根本問題』〈現代哲学の根本問題8〉晃洋書房、一九七八年十一月)に據る。これを自身に施せば、「思想家にとって本質的なことは、彼が自分自身でずっと以前から適用していた当の方法を顕在化し主題化することでしかない」(p.50)。同じ傳で主題化されたのが、言語であるといふわけ。「第一部 語る語られた言語」では『行動の構造』『知覚の現象学』等のメルロ=ポンティの論が、行動主義心理學やゲシュタルト心理學が記述や説明に用ゐる言語への批判としてあったことを示す。「第二部 語られた語る言語」にて、ソシュール著と出會った中期以降におけるメルロ=ポンティにとっての主題概念となってからの言語論を讀み解いてゐる。フッサール(フッセルと表記)への參照が多いのは當然として(Phaenomenologicaといふシリーズだし)、ベルクソンが引合ひにされるのが目立つ。
[投稿日] 2015年6月15日
奧附「編集協力 川村伸秀」「私家版 限定500部」。國會圖書館・CiNii所藏無し。
一◉『内田魯庵山脈』余録
二◉『内田魯庵山脈』を読む
三◉山口昌男の愛すべき迷惑
四◉トリックスターの古稀に寄せて
五◉山口昌男 年譜
六◉山口昌男 著訳書一覧
[投稿日] 2015年6月14日
「特集:昭和史 前期 の中の科学」
[投稿日] 2015年6月14日
「特集:大正科学へのアプローチ」