歴史的理性の批判のために

岩波書店2002-05-10 ¥3,024
購入: 2010-12-26 ¥1200
讀了: 2011-02-09 歴史・地理

[投稿日] 2010年12月26日

 このテーマの文獻案内にはなるだらう。各章ごとに中心となる論者のテクストを紹介し、要點を讀解しながら、「しかし、どうであろう。」と言って批判を差しはさむのがパターン。
 ただ、どうであらう。第四章、三木清『歴史哲學』に對してだけはお得意の「どうであらう」節の異論が出ないといふのは。ショシャナ・フェルマンや高橋哲哉や野家啓一やスピヴァクよりも、三木の方がよほど獨斷論でツッコミどころだらけだが。
 三木清における批判すべき點を見出すべき目を曇らせてゐるものは、何か。或る種の實踐への未練、なほ左翼的な政治性……?
 ともあれ結局、歴史についての認識論や批判主義(カントの意味で)は展開されるに至らない。

比較史の方法 (1978年) (歴史学叢書)

創文社1978-12 ¥1,080
購入: 2010-12-19 ¥600
讀了: 2010-12-25 古書

[投稿日] 2010年12月19日

 アントワーヌ・メイエ『史的言語学における比較の方法』を引いて比較に二種類あると概念分けしたところは、比較文學で論爭になった一般文學(廣義の比較文學)か比較文學(狹義)かといふ問題に相似する。しかし、比較文學はフランスが本場だったといふのに、ブロックは勿論ページ數の半ばを占める譯者解説も參照してない。逆に、比較文學論でメイエやブロックを引いたものも管見に入らない。またブロックが比較二種のうち前者についてフレイザー『金枝篇』を例に出してゐる通り、民俗學・人類學・神話學にとっても他人事ではない筈。カルロ・ギンズブルグ『闇の歴史 サバトの解読』に於るフォークロア的比較法の導入に伴ふ問題點は上村忠男『歴史家と母たち』の特に論ずるところであったが、あれもブロックは引證しても比較文學までは取り上げてない。惟ふに、言語・歴史・文學・民俗・生物學その他多領域に跨がった一般比較方法論が考へられてよい。といふか、誰か書いてゐてもよささうだが……これ以上、比較文學研究史とか調べるのは門外漢には面倒臭い。

現代歴史学入門 (1965年)

有斐閣1965 ¥0
購入: 2010-10-16 ¥500
未読 古書

[投稿日] 2010年10月16日

 III「歴史学の方法(2)――史料の批判と解釈――」―§2.「史料の理解」(堀越孝一)が目當て。科學認識論に踏み込んでゐるのは歴史學者としては珍しい。コリングウッド批判も妥當だらう。

目次 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3049118

ディルタイと現代―歴史的理性批判の射程

法政大学出版局2001-03-01 ¥0
讀了: 2010-10-10 人文・思想

[投稿日] 2010年10月10日

 えいくそ、役に立たないなあ、もう。まともにディルタイ批判を掲げる者はをらんのか。ディルタイの例の體驗-表出-了解といふ解釋學の概念三點セットや、歴史認識論における自敍傳重視なんかは、その儘だと煎じ詰めれば、例へば文學史を作家論に還元することにしかならぬだらうが。さうではなくて、學問的な歴史學にさへ意圖の忖度や目的論や價値判斷が入ってきてしまふことを事實問題として剔抉し、我々の認識にそのやうに仕向ける制約があることをカントのカテゴリー論の要領で明らかにし、そこから逆に權利問題として歴史認識の可能性の條件を問ふこと、歴史的理性批判乃至歴史的判斷力批判があり得るとしたらその線でやるしかないだらうに。
 ところで、各論の執筆者名を目次にのみ記し、本文に署名がないのはなぜだ?

歴史の構造 (1940年) (富山房百科文庫〈第109〉)

冨山房1940 ¥0
購入: 1995-11-09 ¥200
讀了: 2010-10-10 哲学・思想

[投稿日] 2010年10月10日

 一九九五年末に買って、讀んだ形跡もある。が、内容全く記憶に無し。
 『ディルタイ著作集 第四卷 歴史的理性批判』(創元社、一九四六年十二月。書名はジャケット・表紙・挾み込みリーフレットによる、扉・奧附では「ディルタイ全集」)所收の別譯「精神科學に於ける歴史的世界の構成」を讀みながら對照したが、まるで得る所が無い。獨哲の連中は何を有り難がってゐたのやら。それは時代の限界とするにせよ、いま法政大学出版局がディルタイ全集を延々刊行中なのだが、こんなものに肩入れして大丈夫だらうか?