ヘーゲル以後の歴史哲学―歴史主義と歴史的理性批判 (叢書・ウニベルシタス)

法政大学出版局1994-07 ¥0
讀了: 2010-10-05 人文・思想

[投稿日] 2010年10月5日

 譯者(古東哲明)の〔 〕による補足が必要以上に多い。
 卷末「文献表」に邦譯を補ってあるのは哲學書ばかり、マイネッケすら漏れてゐるってどういふこと? 
 その分析はなかなか讀解の參考になるものの所詮は哲學者の論、哲學史に限定されてをり、歴史家であるブルクハルトやドロイゼンの章を立ててゐるとはいへ、科學史(學問史)に及ばない。「歴史認識の実践〔暗黙裡の行為〕を哲学的に解釈することと、その歴史認識の実践自体との、事柄としては必然的なつきあわせ〔対比〕を、おこなわないままにとどめざるをえなかった。そうしたつきあわせ〔対比〕は、科学史家との共同作業をつうじてのみ、なされるべきだからである」(p.38)。これだから哲學者って……カッシーラーやフーコーの爪の垢でも煎じて飮め。 
cf. 笠原賢介譯ヘルベルト・シュネーデルバッハ「歴史における‘意味’?――歴史主義の限界について――」http://hdl.handle.net/10114/3995

歴史主義 (1970年) (社会科学ゼミナール)

未来社1970 ¥454
購入: 1995-11-04 ¥200
讀了: 2010-09-29 古書

[投稿日] 2010年9月29日

 一九九六年に讀んで誤植を訂した形跡まで殘ってゐるのに、内容は全く記憶に無くなってゐた。 
 マンハイムは、歴史主義の弊とされる價値相對主義はリッケルト流認識論の「絶対的形式化」から來ると批判し、空虚な形式主義にならず實質的な内容を以て充たしてこそ眞の歴史主義だと提言するわけで、不變のアプリオリと見られがちな形式や範疇とて時代毎の歴史性に拘束されたものだといふ指摘には同意するにせよ、さういふ當人の議論が專ら抽象論であり、固有名詞や文獻を擧げて内容を具體的に引照しながらそれらと挌闘する歴史實證的な姿勢に乏しいのは、所詮はドイツ精神主義・觀念論の圈内に拘束されてゐたのか。ともあれ、トレルチが歴史主義の二大特徴とした個別性と發展とのうち、前者に偏るマイネッケ流が多い中で後者を重視したマンハイムもゐたといふ見取圖は得られた。と言っても、發展概念を辨證法のダイナミズムの方向で活かさうといふマンハイムの試みは解決になるまい。
 マンハイムの本文は別に難解ではないが、むしろ卷末の徳永恂「〔解説〕マンハイムと歴史主義の問題――一九二〇年をめぐる思想史的覚え書――」の方が力篇だけどいまひとつ解りにくい。

ハリネズミと狐――『戦争と平和』の歴史哲学 (岩波文庫)

岩波書店1997-04-16 ¥0
購入: 2010-09-23 ¥251
讀了: 2010-09-23 歴史・地理・旅行記

[投稿日] 2010年9月23日

 主題のトルストイ論としてよりそれと重ねられるジョゼフ・ド・メーストル論を中心に展開して貰ひたくなる(そしたらカール・シュミットと對照する興味も出るし)。それでは人目を引くまいが――『バーリン選集4 理想の追求』所收「ジョセフ・ド・メストルとファッシズムの起源」を讀むべきか。
 バーリンが「現実感覚」(p.116)と呼ぶ概念を可能性感覺(ムージル/大川勇)と裏腹のものとして讀み換へられよう。自由と責任などといふ道徳臭のする議論(カントにおける實踐理性の問題)としてよりも、歴史の認識論として受け取ってやりたい(可能性と言っても、鹿島徹『可能性としての歴史』みたいだと不滿だが)。「かわりの可能性――「そうなったかもしれない」を計算するわれわれの能力の弱さから生ずる限界」(p.133)といふ限界づけ、これはそれと明示されてないがカント流の批判主義であらうから、求められるのは歴史的理性批判(ディルタイ)といふことになる。いや、歴史的判斷力批判か? 願はくは、現實感覺/可能性感覺の樣相論が歴史敍述に即して思考せられむことを。

自由論〈1〉 (1971年)

みすず書房1971 ¥1,080
¥0
讀了: 2010-09-20 古書

[投稿日] 2010年9月20日

 どうも、著名で古典的でさへある本論「歴史の必然性」「二つの自由概念」を讀み直すよりも、それが受けた批判に應へた「序論」を讀んだ方が力點が鮮明で面白いやうだ。
 この際、「人間性」などといふ道徳論を振り回す所や、正常でない除外すべき例として何かと狂氣を擧げる所など、現代思想からすれば引っ懸りを感ずる方面は目を瞑ってやるがいい。しかし、歴史家(や社會思想家)の用ゐる言葉に焦點を當てるやり方(pp.10-13,19,41-42.)は、オックスフォード日常言語學派の影響にせよ、言語論的轉回以降の理論に照らしてなほ古びてない。諸思想の相剋から思想問題自體の解消への動きを二十世紀の特徴としてバーリンが述べる時、そこにテクノクラシーやファシズムといった政治思想だけでなく論理實證主義やヴィトゲンシュタインの思考法も含まれ得ることに氣づいてゐたのかどうか。つまり、思想の問題を言語の問題へと解消する方法も、だ。またバーリンが(消極的)自由の名のもとに説く選擇や可能性の問題は、今日の讀者には、アガンベンが論ずる(非の)潛勢力と重ねて考へられよう。そんな想ひ着きは當然、政治思想方面で誰か物してゐるのかしれないが、むしろ歴史認識論において偶然論や可能世界論といった樣相論哲學を展開して貰ひたいものである。……「リアリズム(空想、生活の無知、ユートピア的夢想に対して)と呼ばれるものはまさに、生起したもの(あるいは、生起するかもしれないもの)を、起りえたはずのもの(あるいは、起こりえたもの)の文脈に据え、これと起りえなかったものとを区別する点に存するということ、そして(ルイス・ネーミア卿がかつて示唆されたことがあると思うが)結局のところ歴史の意味はこれに帰するということ」(「歴史の必然性」p.216)。

永原慶二著作選集〈第9巻〉歴史学叙説・20世紀日本の歴史学

吉川弘文館2008-03 ¥19,440
讀了: 2010-09-10

[投稿日] 2010年9月11日

 惡い意味での思想史なのか? 歴史家の思想傾向・イデオロギーの裁斷で以て史學史を敍述したつもりになるのは止してもらひたい。特に、『20世紀日本の歴史学』「I 近代歴史学の成立」で大正・昭和戰前の史學を述べる段(本領である戰後歴史學を扱った「II 現代歴史学の展開」はまだしも役立つのだが)。情報量不足で知識の得られない歴史書なんて讀むに堪へない。思想の前に、もっと知識を! 清原貞雄『増訂日本史學史』(1944)の方が餘程立派だ。

明治時代の歴史学界―三上参次懐旧談

吉川弘文館1991-01 ¥0
讀了: 2010-09-10 ノンフィクション

[投稿日] 2010年9月11日

 關心薄い分野ですら學者爺いの昔話を讀んでゐると面白くなってきてしまふのはなぜかしらん。 
 老人のそれからそれへの想ひ出話につきあふうち、高田早苗の美辭學は三上の代筆だ(p.40)とか、ひょんな一行一句が光って眼に飛び込んでくるのが嬉しい。無論、光を帶びるのは讀み手の照明の當て方次第にせよ。

ドイツ史学思想史研究 (1976年)

ミネルヴァ書房1976 ¥3,888
購入: 2013-11-23 ¥1500
讀了: 2010-09-10 古書

[投稿日] 2010年9月11日

 期待したコゼレックらの概念史・社會史についてはこの本が取り上げた後の時代に屬すゆゑ論及されてなかった。概觀としてはよく調べてあるものの、對立する二項を取り出したところで論が終ってしまふのでもっと突っ込んだ考察が欲しい。これをちゃんと「思想」史とするには、哲學的訓練を經た上で諸概念の歴史的關係の内實を論理に即して考へ詰める作業が要る。
 本書刊行以降に發表された關聯論文として下記あり。
▼「ドロイゼンの「史学論」(一八五七)におけるGeschichteの問題 」名古屋大学教養部『紀要 A (人文科学・社会科学)』第23輯 、一九七九年三月
▼「ホイシにおける「歴史主義の危機」の問題 」名古屋大学教養部『紀要 A (人文科学・社会科学)』第25輯 、一九八一年九月
▼「戦間期ヨ-ロッパ歴史思想における「危機」の問題」名古屋大学教養部『紀要 A (人文科学・社会科学)』第30輯 、一九八六年二月
▼「『歴史的基礎概念事典』――〈Geschichte〉の項――」日本大学文理学部『學叢』第43號(昭和62年度)一九八七年十二月「特集 辞書・事典」

批判近代日本史学思想史 (1974年)

柏書房1974 ¥0
¥0
讀了: 2010-09-10 古書

[投稿日] 2010年9月11日

 廣くカバーして色々ぶちこんであるので情報量はあるのだが、その情報の書誌記述などが精密でなく頼りにならず、且つ論理の取っ散らかった頭の惡い文章(文章のことであり、著者の頭腦が愚鈍とは言はない)。問題設定を生かして、誰か書き直してくれ。

フリードリッヒ・マイネッケ研究―その歴史的政治的思考における国民国家とヨーロッパ的世界 (1965年) (学位論文叢書〈1〉)

)一橋大学一橋学会1965 ¥0
讀了: 2010-09-10 古書

[投稿日] 2010年9月11日

 著者の見方からすればもっと嚴しくマイネッケを批判できるはずなのに、何だか遠慮してゐるみたいな。そもそも、歴史研究を國家の現代政治に關はらせなければならぬといふ當爲がどうしてそんなにも強迫觀念であったのやら、そこからして大いに疑問とならうに。これでは概念史とはまるで政治倫理・政治道徳史であるかのやうだ。