[投稿日] 2015-09-19
「初刷千二百部」、裸本イタミ。
目次 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1261999?tocOpened=1
[投稿日] 2015-09-19
「初刷千二百部」、裸本イタミ。
目次 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1261999?tocOpened=1
[投稿日] 2010-12-03
この時點でなほcivilizationを「文化」と譯してゐる?
[投稿日] 2015-09-13
目次 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1127248?tocOpened=1
[投稿日] 2015-08-02
國會圖書館所藏無し。奧附刊記に「著者兼発行者 石沢澈」とあり「現住所 北海道学芸大学旭川分校史学研究室」。標題紙に「謹呈 柴田実先生/著者より」とペン書き。本文に誤植訂正の書き入れあり。
Cf. http://mediamarker.net/u/bookish/?mid=2333105
奧附「著者略歴」に「京都帝国大学国史学科卒業、大学院にて研究」とあり、京都大學文學研究科圖書館のみ藏するは著者寄贈か。
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BB00369293
日本史研究者にしては、内容は歐米歴史哲學各書の紹介である。京大の前に「日本神学校(東京神学大学前身)卒業」といふ履歴の所爲か、宗教を重視する如し。
第一章 ヤスパースの「世界史の構想」
第二章 アルバン・ウイヂアーリイの「歴史の解釈」―孔子よりトインビーまで―
第三章 ウオルシユの歴史哲学序説
第四章 ポラードの歴史教育思想
第五章 諸家のマルクス主義思想批判
第六章 トインビーの宗教史観
[投稿日] 2010-09-01
目次 http://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784098461035
[投稿日] 2009-11-27
[投稿日] 2010-08-14
目次 http://www.miyaishoten.co.jp/main/003/3-11/monogatarinosekaie.htm
[投稿日] 2010-06-05
[投稿日] 2015-04-19
新書判にて小事典の概あり。一九九一年改訂版で増ページ、一九九四年改訂第2版、さらに二〇〇三年版にて「1994年刊の改定第2版に修正が加えられた事は出版者に確認済である」とのこと。
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BB03254822
目次 http://www.zuroku.jp/kokusaihanga/1260001.php
[投稿日] 2015-08-02
「限定三百五十部」「発売所 京王商事株式会社」。發行所をウェブサイトで「京央書林」と記すは、二〇〇〇年十二月に商標登録無效を京王電鐵グループから訴へられて一字改稱したらしい。
http://keiosy.web.fc2.com/
http://shohyo.shinketsu.jp/originaltext/tm/1053983.html
一連の書誌シリーズの最終刊で、最も厚くがっちりした本。それで目を着けられてしまったか。
「今度の書誌づくりほど楽しかったことはない。」「本書作成に当たり、北海道大学神谷忠孝教授には「十一谷義三郎・書誌」に引続き何かとご教示を頂き、跡見学園女子大学菊池弘教授には、資料・論考について細かい御指導を賜りました。」「多忙な社長業の傍ら、余技ともいうべき仕事なので意に満たない点も多いが、私の性格上いい加減な仕事はしていないつもりである。」(「あとがき」p.466・470)。
岩田光子「作品解説」pp.387-404
岩田光子「片岡鐵兵の文学」pp.436-450
片岡藍子「鐵兵と娘」pp.452-465
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BA49971212
[投稿日] 2011-03-26
身贔屓にならず學者としての難點を批評してある部分もあるのが、讀みどころ。
「このころ[敗戰後]はとっくに進歩はとまっていた。一体父の書いたもので、学界の先端を行っていたものはいつごろまでのものかというと、昭和六年の『ユーカラの研究』、昭和十三年の『新訂国語音韻論』あたりまでで」……(p.149)。生前にあった知里眞志保や小林英夫からの批判も見るべきだらう。
「思うに父の頭の中には、[……]絶対に疑ってはならない神聖な信条が幾つかあったようである。[……]/それらは、強い感情の裏付けをもっていたので、言葉に表すときには、激しい語調を伴った。感情が裏付けになっているだけに、冷静にすきをつかれて反論されると、たわいなかった。[……]福田恆存氏とやりあって衆目を集めた仮名遣い論争の時など、その例である」(p.29)。「父は、日ごろ自分の好きなものはイコールよいもので、自分の希望することはイコール正しいことだという哲学をもっていた。[……]/学問の上でもこの行き方が現れることがあって、敬語は美しい、と考えることから、敬語のあることは日本語の長所であると判断する類である。こういうことは文学研究には、かならずしも邪魔にならないとしても、言語学の研究には大分有害だったと思われる。父が言語学者として、とにかく一流の人になれたというのには、友人に、橋本進吉博士のような、純粋に客観的に物を見ることができる、理性的な学者がいて、その風に親炙したおかげだと思う」(p.69)。
[投稿日] 2015-05-02
實際の發賣は四月廿三日頃らしい。
Cf. http://minakuma.exblog.jp/24394705
九年ぶりの復刊。挾み込み送り状「『熊楠研究9』の送付について」の差出人は「南方熊楠研究会準備委員会」。つまり奧附等には「熊楠研究会編」とあるも同會は正式には未成立と判ぜられる。卷頭「『熊楠研究』の復刊について」は「『熊楠研究』編集委員会」の名義となってゐる。
「南方熊楠・岡茂雄往復書簡」は、標題には記してないが前半のみで、次號にも續載の由。昭和初年に出版界の一角を占めた岡書院から見た出版史の資料でもある。わからず屋で誤解から猜疑心を起こす南方に懇々と説明する岡の手紙が、自づと當時の出版業界の慣行の記述を成す。
目次 http://www.minakata.org/cnts/kankoubutu/index.cgi?v=54200
[投稿日] 2015-06-14
「特集:大正科学へのアプローチ」
[投稿日] 2015-06-14
「特集:昭和史 前期 の中の科学」
[投稿日] 2016-11-12
目次 https://dl.dropboxusercontent.com/u/4611346/17534.jpg
號數標示は無いが、第二〇號に續くもの。「ここにお届けするのは、「無名鬼」の誌名を冠している(故人はこれを許してくれるであろう)が、あくまで「村上一郎追悼号」なのであって「無名鬼」終刊号ではない」(桶谷秀昭「編集後記」)。
[投稿日] 2015-04-24
或る種の書物人の代表としての朝倉治彦の名が氣に懸ってゐたため碌に追悼文も出ないのは惜しく念ってゐたが、辛うじて大學の縁でこのやうな記録が纏まったのは、有り難い。「経歴と業績年譜」(pp.10-24)は朝倉自身の原稿に基づいて生前に補正を進めてゐたものとのこと。
卷末「『近世文学会会報』既刊号細目(第一~二十号)」のみならず、小島瓔禮「明日へのために――國學院大學近世文学会」のこと――」、中村正明「『澁谷近世』と朝倉治彦先生」等のあることで、ちゃうど二十號までの雜誌と研究會の來歴を振り返る號となった感がある。
目次 http://kinbun.jugem.jp/?eid=1185
[投稿日] 2016-02-09
發行地が沖繩市なので見掛けない。國會圖書館所藏無し。
「序」は内田道夫。卷末「付録」は「阿英著作一覧」「固有名詞索引」(p.247-323)、後者は「中島利郎はじめ関西大学中国文学研究室」の提供にて排列が漢語拼音順。
翌一九七九年に飯塚朗・中野美代子譯『晩清小説史』(〈東洋文庫〉平凡社)が出て通行。
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BN08922987
[投稿日] 2010-09-01
「言わなければよかったのに日記」ほかエッセイ集。
目次 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1665251
[投稿日] 2009-10-30
[投稿日] 2009-10-30