歴史評論 1976年10月号NO.318「特集・歴史科学と『歴史評論』30年」

校倉書房 / 1976-10-01刊 / ¥700
購入: 2016-10-29  /¥167
未読 歴史学

[投稿日] 2016-10-29

目次 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/7940516?tocOpened=1

 挾み込み一葉、『赤旗』一九七六年十月五日掲載犬丸義一「“継続は力なり” 歴史評論 ――創刊三十周年記念号によせて」切拔き。
 布村一夫「近代神話学の樹立と集成(上)――奝然が献上した『王年代紀』――〔高木敏雄生誕一〇〇年記念〕」は次號完結、高木敏雄より松村武雄を詳述。

日本歴史 2000年9月号(第628号)「小特集〈近代文書論〉」

吉川弘文館 / 2000-09-01刊 / ¥660
購入: 2016-08-27  /¥100
未読 歴史学

[投稿日] 2016-08-27

目次 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/7910685?tocOpened=1
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I002495526-00

乾坤の箱

[中井信彦] / 1980-10-20刊 / - /
購入: 2016-04-23  /¥200
未読 人文・思想

[投稿日] 2016-04-23

 「非売品」、「製作 塙書房」、發行者は無記だが慶應義塾停年を機にした自刊らしい。國會圖書館所藏無し。CiNiiにも登録無いが慶應義塾大學三田には所藏。
 書名の由來は、「俳人西鶴が「明ては何もなし」と吟んだ、空疎な『乾坤の箱』である」(「はしがき」p.2)。
 「先師追憶」中、柳田國男と幸田成友に就ては著作集月報への寄稿の再録を含む。見出しは立ってないものの「先師追想補遺」等には野村兼太郎も回想されてゐる。
 自著の「あとがき集」に十篇。

http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I030039867-00
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I053892009-00

現代の歴史思想

石沢澈 / 1962-09-10刊 / ¥200
購入: 2015-08-02  /¥100
未読 歴史・地理

[投稿日] 2015-08-02

 國會圖書館所藏無し。奧附刊記に「著者兼発行者 石沢澈」とあり「現住所 北海道学芸大学旭川分校史学研究室」。標題紙に「謹呈 柴田実先生/著者より」とペン書き。本文に誤植訂正の書き入れあり。
Cf. http://mediamarker.net/u/bookish/?mid=2333105
 奧附「著者略歴」に「京都帝国大学国史学科卒業、大学院にて研究」とあり、京都大學文學研究科圖書館のみ藏するは著者寄贈か。
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BB00369293
 日本史研究者にしては、内容は歐米歴史哲學各書の紹介である。京大の前に「日本神学校(東京神学大学前身)卒業」といふ履歴の所爲か、宗教を重視する如し。
第一章 ヤスパースの「世界史の構想」
第二章 アルバン・ウイヂアーリイの「歴史の解釈」―孔子よりトインビーまで―
第三章 ウオルシユの歴史哲学序説
第四章 ポラードの歴史教育思想
第五章 諸家のマルクス主義思想批判
第六章 トインビーの宗教史観

歴史学概論――日本史学研究法として――

三明社(大阪) / 1953-08-01刊 / ¥200
購入: 2015-07-11  /¥100
未読 歴史・地理

[投稿日] 2015-07-11

 國會圖書館所藏無し。石沢澈(とほる)はのち北海道教育大學勤務。同大附屬圖書館旭川館か京都大學文學部圖書館にしか入ってない自刊の著書が多い。
 http://ci.nii.ac.jp/ncid/BA7657965X
 見返しに「謹呈 柴田実先生 著者より」とペン書き。はるばる京都より流れて來たか。柴田實は一九九七年三月歿。
Cf. http://mediamarker.net/u/bookish/?mid=2343567
 「序」末に「本書は畏友有坂隆道學兄の並々ならぬ御盡力によつて出版の運びとなつた」とあり。

国史の研究〈〔第1〕〉総説 (1947年)

岩波書店 / 1947刊 / - /
購入: 2011-09-04  /¥250
未読 古書

[投稿日] 2011-09-04

 購入せるは『更訂 國史の研究 總説』昭和六年八月第一刷。のち昭和十六年六月第九刷で「附録 自昭和六年至昭和十五年 國史公刊目録」(pp.501-531)を増補し、一九四七年に第十二刷を刊行してゐるのが別書誌の扱ひ。
 http://opac.ndl.go.jp/recordid/000000868564/jpn
 http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BN15306677
 この更訂初版は本文に續けて卷末奧附前に「正誤表」三ページ分(ノンブル無し)を附載するが、うち二ページ目最後尾から三ページ目初頭にかけて三行續けてを赤線で抹消したものが賣られてゐたのを見た。しかし我が架藏本はその三行分を削除して前に詰めてある。即ち、正誤表で二ページ目、「頁」番號が二四八の行と二五四の行の間が無かったことになってゐる。それだけ三ページ目は行數が減って、不自然に前の方が空いてゐる。明らかに正誤表のページだけ版が異なるのだが、しかし奧附刊記は兩册とも全く同じで差異がない。隱れた異版があるといふわけだ。抹消された三行で指摘された箇所は、望月信亨→信享とするのが二箇所、狩谷棭齋→掖齋とするのが一箇所、いづれもむしろ本文のままが正しかったから、抹消されたのは適切である。いま國會圖書館藏本を近代デジタルライブラリーで確認すると、何と、正誤表が無い。その代り、本文の該當箇所はペンで修正してある。しかし抹消分三箇所は反映されてないから、三行抹消版正誤表に基づくらしい。尤も修正漏れもある(二四八ページ)から、斷言はできないが。
Cf. http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1075909/28
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1075939/164
 内容は、「第二章 補助學」等が目當て。

中国史学史の研究 (東洋史研究叢刊)

京都大学学術出版会 / 2006-03刊 / ¥9,180
讀了: 2011-08-02 歴史・地理

[投稿日] 2011-08-02

 八百ページを超す大著。第六部「章学誠と『文史通義』」だけで五章百十ページを費やすが、鋭さが無いので詰まらない。學術書は面白味無くても眞面目に研究してればいいと言ふのなら仕方も無いが、知識滿載なのでもない。代表作と代表的人物だけ取り上げて專門論文にしたのを列ねて著書にするやり方は、雜學多識な内藤湖南『支那史學史』と對照的だ。
 見どころとしては、前著『中国の歴史思想――紀伝体考』から引き繼いで『史記』を論じた第二部第一章・第二章か。司馬談・遷父子の秦人たりしことを強調、そこから暴秦論への對抗の意を讀み解くのが創見らしい。
 あと、山口久和著もさうだったが、漢文を訓み下し體で引用するのは結構ながら、專門家には當り前の訓み方もあるにせよ、強引に訓み下してあるやうな難訓字にルビを振らずにをるのは、何か、さういふ流儀なのかいな。

目次 http://honto.jp/netstore/pd-contents_0602655979.html

支那史学史〈2〉 (東洋文庫)

平凡社 / 1992-12刊 / ¥3,240
讀了: 2011-07-08 世界史

[投稿日] 2011-07-08

 全體の三分の一を占める清代の記述が壓卷(『清朝史通論』の「経學」「史學及び文學」の章と併讀すべし)。新しい時代から遡って讀んでいった方が面白いかも。章學誠論が未成に終ったのは惜しい。
 索引の間違ひと不足が少し氣になった。

支那史学史 (1) (東洋文庫 (557))

平凡社 / 1992-11刊 / ¥3,132
讀了: 2011-07-08

[投稿日] 2011-07-08

 湖南全著作中第一に指を屈すべき名著――但し、學問方法論への志向を讀み取らねば眞價が味はへまい。鄭樵その他目録學に關する敍述もかなり含み、湖南全集第十二卷「支那目録學」と竝べて補ふべきもの。吉川忠夫「解説」も良い。
 瑕釁はある。唐代の杜佑『通典』について、内藤湖南全集の「通典の著者杜佑」(第六卷、初出一九二九年)「昭和六年一月廿六日御講書始漢書進講案」(第七卷)での高評價に比べると記述が薄くて目立たないのは、不審。しかも朱子が杜佑を「古を是とし今を非とするの書である」と評したとある(p.317)のは、講義ノートに據った遺著にしてもひどい謬記で、原文は「非古是今之書」(朱子語類卷第一百三十六歴代三)と正反對。それでなくては支那には珍しい杜佑の進歩主義を評價した意味が無くなってしまふ。さらに、杜佑が民俗學的考察法の先驅である點について他では強調してゐたのにこの『支那史學史』中に全く觸れてないのも訝しいことで、湖南もまだ大正年間の講義中にはそれに氣づいてなかったとか?

歴史社会学とマックス・ヴェーバー〈上〉歴史社会学の歴史と現在

理想社 / 2003-03刊 / ¥3,024
讀了: 2011-05-16 社会・政治

[投稿日] 2011-05-16

 佐藤健二「柳田国男の歴史社会学」は既往の讀者にとっては新味無し。田中紀行「現代日本における歴史社会学の特質」の、日本では日本史研究者が社會史を近現代でやらないからその空白を埋める意味で歴史社會學と稱して社會學者が代ってやってしまふといふ指摘(p.170)は、言はれてみれば妙な分業關係ではある。しかしこの『(上)』を見る限りウェーバーは名目だけといふ感じだ。國際會議にありがちな中身薄い寄せ集め。下卷は見送り。

目次 http://honto.jp/netstore/pd-worklist_0602296077.html

歴史学 (ヒューマニティーズ)

岩波書店 / 2009-05-26刊 / ¥4,704
購入: 2011-03-26  /¥400
讀了: 2011-03-27 歴史・地理

[投稿日] 2011-03-26

 余は如何にしてメディア史研究者となりしか、を綴る自傳的構成。その個別例を以て歴史學一般の問題にどこまで迫れたかが肝要だが……。すらすら直ぐに讀み了へられ達意の文である分だけ、あまり理論的考察に踏み込めないのは、この輕い叢書の性格上已むを得まい。
 この本で論じ切れてない問題を引き取ると、著者が擧げる「宣伝」「公共性(圏)」「国民化」の接眼レンズ三點セットよりも重要なのは、「私はどれだけ大衆なのか」(p.71)といふ問ひと見た。大學大衆化に抗する「フンボルト理念」を創られた傳統と承知の上で信奉すると言ふが(p.10)、單なるエリート教養主義でなしに現在のマンモス大學や大學外の大衆社會でその理念は果して實踐し得るのか。享樂を好む大衆性は一面でアカデミズムに對するディレッタンティズム(pp.67-68)にも繋がるし、「社会史ブームは、[……]歴史学の印象を非政治的な雑学趣味にしてしまった」(p.29)といふ事態の底には歴史學徒さへももはや「政治的人間である「市民」」(p.29)から大衆に化したといふ社會状況があるのではないか。また世俗の垢に泥んだ大衆からすれば、鈴木庫三が「野蛮な軍人」ではなく「生真面目過ぎるほどの情熱」を持った「教育改革」の提唱者であったといふ發見(pp.87-88)は、鈴木を免罪するよりは寧ろそんな糞マジメだからこそ端迷惑な惡果を生じたといふ見方になるべきではないか。
 「ひょっとするとディレッタントは誉め言葉だったのかもしれないが」(p.67)……否、蔑稱だったとしても、その價値判斷を逆轉すべきなのだ。佐藤卓己には、自分の長所がオモシロガリズムにあることを忘れないで貰ひたいものだ。

目次 http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0283220/top.html