書痴半代記 (ウェッジ文庫)

ウェッジ / 2009-04-20刊 / ¥720
購入: 2010-09-05  /¥400
讀了: 2010-09-00 エッセー・随筆

[投稿日] 2010-09-05

 「うたごえ運動」の關鑑子が關如來(柯公全集編者)の娘だったとは……と、どうでもいい瑣末事を拾って悦ぶのみ。だって記述が淡泊で物足りないんだもの。所詮は詩人の隨筆だからか(←偏見)。

戦間期日本の社会思想―「超国家」へのフロンティア

人文書院 / 2010-03刊 / - /
讀了: 2010-09-12

[投稿日] 2010-09-11

 引用文で當時は普通だった用字にまで「ママ」とルビを振るから、若い者の物知らずに見えてしまふ。註を見ると拔かりなく調べてある風なのだが、博搜にも拘らず、「序章」「終章」の問題設定が詰まらないのは取って附けたお體裁だからなのだらうか? 總體に考察や論評が弱く、折角掘り出した素材の旨味を生かせてないやうな。「あとがき」で池田浩士の談と云ふ「オタク精神」(p.455)とは、「精神」である以上、資料漁りの物慾にだけ發揮さるべきものではあるまい。といって超國家主義者たちの「非合理」の情念に共感されても下らない、如何に國家を超えるかなどと下手に眞面目ぶるよりも面白がりの態度を取った方が知的準位を保つことあるべし。次作でひと皮剥けることを期待。個々の事實の細敍については卒讀ではつきあひきれない、後日借り直すか。

歴史で考える

岩波書店 / 2007-03-28刊 / ¥5,184
讀了: 2010-09-10 歴史・地理

[投稿日] 2010-09-11

 大掴みな圖式を得るには役立つにしろ、細部に宿る神々を感じさせないのは歴史家としてのセンスを疑はせる。メタヒストリーなるがゆゑに概説になってしまったのかもしれないから、本領の歴史研究を讀んでから評定すべきだらうが、その意味で成田龍一と相通ずるのはわかる氣がする。「あとがき」(p.515)で「近年もっとも親密な「共同謀議者(co-conspirator)」である成田龍一」について「非常に複雑なテーマも明快な三点で説明できる超人的能力は私たちが見習うべきモデルを示してくれた」、って……巧まざる皮肉かね?

永原慶二著作選集〈第9巻〉歴史学叙説・20世紀日本の歴史学

吉川弘文館 / 2008-03刊 / ¥19,440
讀了: 2010-09-10

[投稿日] 2010-09-11

 惡い意味での思想史なのか? 歴史家の思想傾向・イデオロギーの裁斷で以て史學史を敍述したつもりになるのは止してもらひたい。特に、『20世紀日本の歴史学』「I 近代歴史学の成立」で大正・昭和戰前の史學を述べる段(本領である戰後歴史學を扱った「II 現代歴史学の展開」はまだしも役立つのだが)。情報量不足で知識の得られない歴史書なんて讀むに堪へない。思想の前に、もっと知識を! 清原貞雄『増訂日本史學史』(1944)の方が餘程立派だ。

明治時代の歴史学界―三上参次懐旧談

吉川弘文館 / 1991-01刊 / - /
讀了: 2010-09-10 ノンフィクション

[投稿日] 2010-09-11

 關心薄い分野ですら學者爺いの昔話を讀んでゐると面白くなってきてしまふのはなぜかしらん。 
 老人のそれからそれへの想ひ出話につきあふうち、高田早苗の美辭學は三上の代筆だ(p.40)とか、ひょんな一行一句が光って眼に飛び込んでくるのが嬉しい。無論、光を帶びるのは讀み手の照明の當て方次第にせよ。

ドイツ史学思想史研究 (1976年)

ミネルヴァ書房 / 1976刊 / ¥3,888
購入: 2013-11-23  /¥1500
讀了: 2010-09-10 古書

[投稿日] 2010-09-11

 期待したコゼレックらの概念史・社會史についてはこの本が取り上げた後の時代に屬すゆゑ論及されてなかった。概觀としてはよく調べてあるものの、對立する二項を取り出したところで論が終ってしまふのでもっと突っ込んだ考察が欲しい。これをちゃんと「思想」史とするには、哲學的訓練を經た上で諸概念の歴史的關係の内實を論理に即して考へ詰める作業が要る。
 本書刊行以降に發表された關聯論文として下記あり。
▼「ドロイゼンの「史学論」(一八五七)におけるGeschichteの問題 」名古屋大学教養部『紀要 A (人文科学・社会科学)』第23輯 、一九七九年三月
▼「ホイシにおける「歴史主義の危機」の問題 」名古屋大学教養部『紀要 A (人文科学・社会科学)』第25輯 、一九八一年九月
▼「戦間期ヨ-ロッパ歴史思想における「危機」の問題」名古屋大学教養部『紀要 A (人文科学・社会科学)』第30輯 、一九八六年二月
▼「『歴史的基礎概念事典』――〈Geschichte〉の項――」日本大学文理学部『學叢』第43號(昭和62年度)一九八七年十二月「特集 辞書・事典」

批判近代日本史学思想史 (1974年)

柏書房 / 1974刊 / - /
 /¥0
讀了: 2010-09-10 古書

[投稿日] 2010-09-11

 廣くカバーして色々ぶちこんであるので情報量はあるのだが、その情報の書誌記述などが精密でなく頼りにならず、且つ論理の取っ散らかった頭の惡い文章(文章のことであり、著者の頭腦が愚鈍とは言はない)。問題設定を生かして、誰か書き直してくれ。

フリードリッヒ・マイネッケ研究―その歴史的政治的思考における国民国家とヨーロッパ的世界 (1965年) (学位論文叢書〈1〉)

)一橋大学一橋学会 / 1965刊 / - /
讀了: 2010-09-10 古書

[投稿日] 2010-09-11

 著者の見方からすればもっと嚴しくマイネッケを批判できるはずなのに、何だか遠慮してゐるみたいな。そもそも、歴史研究を國家の現代政治に關はらせなければならぬといふ當爲がどうしてそんなにも強迫觀念であったのやら、そこからして大いに疑問とならうに。これでは概念史とはまるで政治倫理・政治道徳史であるかのやうだ。

振仮名の歴史 (集英社新書)

集英社 / 2009-07-17刊 / - /
購入: 2010-09-12  /¥322
讀了: 2010-09-21 言語学

[投稿日] 2010-09-12

 著者のマニアックな良さが新書判だと出せなかったやうで、ガッカリ。この程度が當今の新書に求められる「わかりやすさ」なのかも。
 チト驚いた豆知識をメモ。「『夜想』などの雑誌を出版していたペヨトル工房(一九七九?二〇〇〇)を主宰していた今野裕一は筆者の実兄であるが、筆者も「北野真弓」などという名前を使って『夜想』の編集の手伝いめいたことを少しの間していた」(p.147)。それだから『消された漱石』はあんな凝った版面設計だったのか?

中央公論社と私

文藝春秋 / 1999-11刊 / - /
購入: 2010-09-17  /¥300
讀了: 2010-09-18 人文・思想

[投稿日] 2010-09-17

 著者の『和田 恒 追悼文集 野分』(私家版、1981)への寄稿にも拘らず、この本で和田のことは觸れる程度であったのは案外だった。和田の病死は高梨茂の部下であったことからくるストレスのためと暴露されてゐる(p.228)。高梨のことをもっと知りたい。上司としてはひどい人格だったらしいが部下ならぬ讀者には知ったこっちゃない、編輯者としては「職人肌」「完全主義」(p.184)で企劃にシブい古本趣味が良く出てゐた。その嗜好のつながりで言ふと、『歴史と人物』編輯時のことに存分に筆を割いて貰ひたかった。本人も「私の中央公論社編集者時代でもっとも充実した三年間」(p.217)と言ふ位だから、『中央公論』や『思想の科学』の内情のことなんかより餘程面白くなりさうに思ふ。内紛や外患による治亂興亡を敍する方がジャーナリズムの需めには合ふのだらうが、本好きにとってそんなに悦んで知りたい事柄ではあるまい。

自由論〈1〉 (1971年)

みすず書房 / 1971刊 / ¥1,080
 /¥0
讀了: 2010-09-20 古書

[投稿日] 2010-09-20

 どうも、著名で古典的でさへある本論「歴史の必然性」「二つの自由概念」を讀み直すよりも、それが受けた批判に應へた「序論」を讀んだ方が力點が鮮明で面白いやうだ。
 この際、「人間性」などといふ道徳論を振り回す所や、正常でない除外すべき例として何かと狂氣を擧げる所など、現代思想からすれば引っ懸りを感ずる方面は目を瞑ってやるがいい。しかし、歴史家(や社會思想家)の用ゐる言葉に焦點を當てるやり方(pp.10-13,19,41-42.)は、オックスフォード日常言語學派の影響にせよ、言語論的轉回以降の理論に照らしてなほ古びてない。諸思想の相剋から思想問題自體の解消への動きを二十世紀の特徴としてバーリンが述べる時、そこにテクノクラシーやファシズムといった政治思想だけでなく論理實證主義やヴィトゲンシュタインの思考法も含まれ得ることに氣づいてゐたのかどうか。つまり、思想の問題を言語の問題へと解消する方法も、だ。またバーリンが(消極的)自由の名のもとに説く選擇や可能性の問題は、今日の讀者には、アガンベンが論ずる(非の)潛勢力と重ねて考へられよう。そんな想ひ着きは當然、政治思想方面で誰か物してゐるのかしれないが、むしろ歴史認識論において偶然論や可能世界論といった樣相論哲學を展開して貰ひたいものである。……「リアリズム(空想、生活の無知、ユートピア的夢想に対して)と呼ばれるものはまさに、生起したもの(あるいは、生起するかもしれないもの)を、起りえたはずのもの(あるいは、起こりえたもの)の文脈に据え、これと起りえなかったものとを区別する点に存するということ、そして(ルイス・ネーミア卿がかつて示唆されたことがあると思うが)結局のところ歴史の意味はこれに帰するということ」(「歴史の必然性」p.216)。