[投稿日] 2015-12-11
「日記抄」は20卷より續くものにて「昭和十五年」から「昭和三十六年」まで。宮内廳圖書寮勤務。
http://www.daiichishobo.co.jp/shinkan/shokai/619.shtml
[投稿日] 2015-12-11
「日記抄」は20卷より續くものにて「昭和十五年」から「昭和三十六年」まで。宮内廳圖書寮勤務。
http://www.daiichishobo.co.jp/shinkan/shokai/619.shtml
[投稿日] 2010-09-27
理論的ディシプリン(訓練)が足りないまま、理論めかした感想文をあまり適切でもない事例を適當にまぶして綴ってゐる感じ。
目次 http://www.seikyusha.co.jp/wp/books/isbn978-4-7872-3252-6
http://www.seikyusha.co.jp/wp/rennsai/yohakuni/blank44.html
[投稿日] 2009-11-26
目次 https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0221730/top.html
[投稿日] 2015-09-19
目次 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130576?tocOpened=1
[投稿日] 2010-08-08
http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/dicts/ja/tenioha/
[投稿日] 2010-12-17
[投稿日] 2009-10-30
[投稿日] 2010-09-05
目次 http://www.idea-mag.com/jp/publication/b031.php
[投稿日] 2009-11-16
[投稿日] 2009-10-29
[投稿日] 2011-06-02
起しの鉤括弧だけあって閉ぢ括弧が無い脱字が目立った。
「14 軍服姿の鴎外」の假名遣論批判、「34 あたらぬも八卦」「35 似てい過ぎるよ」の大野晋による日本語のタミル語起源説への贊同、これらは著者に同意できない。カトリック信仰なんかは好き好きに信じてくれればいいことだが。
「10 腐儒」に述べる所は、むしろ山田忠雄からの批判の方を尤もに思った。「19 礼節」も一往尤ものやうだが、禮節を蹂み躙っても眞を追究するのが學者であるべきだと考へる者にとっては、「6 師弟」の橋本進吉批判を容れない態度は、小松英雄ならずとも失望させられるものだ。
土井忠生との確執もさることながら(「7 キリシタン研究」「32 森田武」)、「21 まことに驚き入ったる悪文」及び「33 学問に執する」pp.181-182の記述から龜井孝と中田祝夫との間には相容れぬものがあったやうに推測されるが、雙方の弟子と言へる小松英雄はどう思ってゐたのだらう。
豆知識――「この「翻字」という言葉は厳父[龜井高孝]の発案だということを、先生から常づね聞かされていた」(p.218)。
目次 http://www.musashinoshoin.co.jp/shoseki/view/1166/
[投稿日] 2015-10-09
卷末「著者略年譜及び著作目録(前著『能古』付載以後の分)」には「喜寿記念『山房雑記』を桜楓社より刊行」とあり、挾み込み一葉「謹呈/例によって自祝の一本を上梓いたしました」云々。奧附に「山房雑記 正誤表」の貼附あり。
『よしあし草』『関西文学』解説
『文壇照魔鏡』秘聞(昭和五十一年八月末成稿)
歌集装幀史話
ほか
[投稿日] 2015-08-04
「発行人 小島輝正著作集刊行会」。
月報「栞」の君本昌久「小島輝正の『アラゴン・シュルレアリスト』および『春山行夫ノート』にふれて」は「蜘蛛出版社代表」による寄稿。
目次 http://kenkyuyoroku.blog84.fc2.com/blog-entry-506.html
[投稿日] 2010-06-05
[投稿日] 2010-09-20
どうも、著名で古典的でさへある本論「歴史の必然性」「二つの自由概念」を讀み直すよりも、それが受けた批判に應へた「序論」を讀んだ方が力點が鮮明で面白いやうだ。
この際、「人間性」などといふ道徳論を振り回す所や、正常でない除外すべき例として何かと狂氣を擧げる所など、現代思想からすれば引っ懸りを感ずる方面は目を瞑ってやるがいい。しかし、歴史家(や社會思想家)の用ゐる言葉に焦點を當てるやり方(pp.10-13,19,41-42.)は、オックスフォード日常言語學派の影響にせよ、言語論的轉回以降の理論に照らしてなほ古びてない。諸思想の相剋から思想問題自體の解消への動きを二十世紀の特徴としてバーリンが述べる時、そこにテクノクラシーやファシズムといった政治思想だけでなく論理實證主義やヴィトゲンシュタインの思考法も含まれ得ることに氣づいてゐたのかどうか。つまり、思想の問題を言語の問題へと解消する方法も、だ。またバーリンが(消極的)自由の名のもとに説く選擇や可能性の問題は、今日の讀者には、アガンベンが論ずる(非の)潛勢力と重ねて考へられよう。そんな想ひ着きは當然、政治思想方面で誰か物してゐるのかしれないが、むしろ歴史認識論において偶然論や可能世界論といった樣相論哲學を展開して貰ひたいものである。……「リアリズム(空想、生活の無知、ユートピア的夢想に対して)と呼ばれるものはまさに、生起したもの(あるいは、生起するかもしれないもの)を、起りえたはずのもの(あるいは、起こりえたもの)の文脈に据え、これと起りえなかったものとを区別する点に存するということ、そして(ルイス・ネーミア卿がかつて示唆されたことがあると思うが)結局のところ歴史の意味はこれに帰するということ」(「歴史の必然性」p.216)。
[投稿日] 2015-07-20
裸本。書名は背文字・中扉(本文用紙)では假名書きで「いしずゑ」だが、表1・標題紙では「礎」一字のみ。副題は中扉より採ったが、外函にも記されてゐるやうだ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122838/22
[投稿日] 2009-10-29
[投稿日] 2011-01-21
[投稿日] 2010-09-12
遺著、故小松茂夫略年譜および業績年表pp.275-291。
[投稿日] 2009-11-25