文体序説 (1967年)

新読書社 / 1967刊 / ¥864
購入: 2010-09-26  /¥500
讀了: 2010-10-01 古書

[投稿日] 2010-09-26

 愚著。前半の方法論は、文學志向による「スタイル」概念への過大負荷、理論の體を成さない。後半はただの詩論。これだから詩の好きな奴って……『修辞学の史的研究』はマシだった筈だが。こんなものが研究史上特筆される(吉武好雄「日本における文章論の発達」)のは文體論研究の程度の低さを示すものだらう。増訂版(一九七一年)を探す必要もあるまい。「まえがき」に後の『筆蹟の美学』(→改題『筆跡の文化史』)に至る問題意識を見られ、「あとがき」から服部嘉香との交流が窺へたくらゐが精々收穫か。舊藏者名「伊藤富士麿」と印あれど他に書き込み等無し。

ハリネズミと狐――『戦争と平和』の歴史哲学 (岩波文庫)

岩波書店 / 1997-04-16刊 / ¥2,290
購入: 2010-09-23  /¥251
讀了: 2010-09-23 歴史・地理・旅行記

[投稿日] 2010-09-23

 主題のトルストイ論としてよりそれと重ねられるジョゼフ・ド・メーストル論を中心に展開して貰ひたくなる(そしたらカール・シュミットと對照する興味も出るし)。それでは人目を引くまいが――『バーリン選集4 理想の追求』所收「ジョセフ・ド・メストルとファッシズムの起源」を讀むべきか。
 バーリンが「現実感覚」(p.116)と呼ぶ概念を可能性感覺(ムージル/大川勇)と裏腹のものとして讀み換へられよう。自由と責任などといふ道徳臭のする議論(カントにおける實踐理性の問題)としてよりも、歴史の認識論として受け取ってやりたい(可能性と言っても、鹿島徹『可能性としての歴史』みたいだと不滿だが)。「かわりの可能性――「そうなったかもしれない」を計算するわれわれの能力の弱さから生ずる限界」(p.133)といふ限界づけ、これはそれと明示されてないがカント流の批判主義であらうから、求められるのは歴史的理性批判(ディルタイ)といふことになる。いや、歴史的判斷力批判か? 願はくは、現實感覺/可能性感覺の樣相論が歴史敍述に即して思考せられむことを。

中央公論社と私

文藝春秋 / 1999-11刊 / - /
購入: 2010-09-17  /¥300
讀了: 2010-09-18 人文・思想

[投稿日] 2010-09-17

 著者の『和田 恒 追悼文集 野分』(私家版、1981)への寄稿にも拘らず、この本で和田のことは觸れる程度であったのは案外だった。和田の病死は高梨茂の部下であったことからくるストレスのためと暴露されてゐる(p.228)。高梨のことをもっと知りたい。上司としてはひどい人格だったらしいが部下ならぬ讀者には知ったこっちゃない、編輯者としては「職人肌」「完全主義」(p.184)で企劃にシブい古本趣味が良く出てゐた。その嗜好のつながりで言ふと、『歴史と人物』編輯時のことに存分に筆を割いて貰ひたかった。本人も「私の中央公論社編集者時代でもっとも充実した三年間」(p.217)と言ふ位だから、『中央公論』や『思想の科学』の内情のことなんかより餘程面白くなりさうに思ふ。内紛や外患による治亂興亡を敍する方がジャーナリズムの需めには合ふのだらうが、本好きにとってそんなに悦んで知りたい事柄ではあるまい。

振仮名の歴史 (集英社新書)

集英社 / 2009-07-17刊 / - /
購入: 2010-09-12  /¥322
讀了: 2010-09-21 言語学

[投稿日] 2010-09-12

 著者のマニアックな良さが新書判だと出せなかったやうで、ガッカリ。この程度が當今の新書に求められる「わかりやすさ」なのかも。
 チト驚いた豆知識をメモ。「『夜想』などの雑誌を出版していたペヨトル工房(一九七九?二〇〇〇)を主宰していた今野裕一は筆者の実兄であるが、筆者も「北野真弓」などという名前を使って『夜想』の編集の手伝いめいたことを少しの間していた」(p.147)。それだから『消された漱石』はあんな凝った版面設計だったのか?

書痴半代記 (ウェッジ文庫)

ウェッジ / 2009-04-20刊 / ¥720
購入: 2010-09-05  /¥400
讀了: 2010-09-00 エッセー・随筆

[投稿日] 2010-09-05

 「うたごえ運動」の關鑑子が關如來(柯公全集編者)の娘だったとは……と、どうでもいい瑣末事を拾って悦ぶのみ。だって記述が淡泊で物足りないんだもの。所詮は詩人の隨筆だからか(←偏見)。