[投稿日] 2009-10-29
いまさら作家別單位の文學全集など構想しても始まるまいに、いい氣なものだ。
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いまさら作家別單位の文學全集など構想しても始まるまいに、いい氣なものだ。
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近世文人の風景批評が主題だが、裏テーマは歴史的に見た學問論・知識人論でもある。
學問(といふか學藝)論の一節――「学問が、同じことだが知識と言葉が、歴史的に眺めて、この社会で初めてそれ自体の価値と力量とを自覚して学に本来的な自律性の原理に生きることを開始した。[……]/といって、このことがただちに学問が実際の政治ないしは行政に用いられたことを意味するととるのは早計にすぎる。そもそも知識と言葉が、それがほんもの[四字傍點]であるならば、いわゆる実際社会において、政治や経済や軍事の領域で有効であるなどという保証はどこにもありはしないのである。たとえば、国家有用の学問というのは明白な形容矛盾にほかならず、事実は国家に有用であるとき、その学問は無邪気にも堕落している、つまり学ではない。無用性こそほんものの学の名誉の印なのだといっていい。」(p.377)
ついでに、讀書論・教養論の一節も。特に前半――「けだし教養とは自分一個の精神の成長に資するもの、清風[=十聲樓主人]のばあいには、町なかの雑音かしましい熱鬧に暮らしながら、その卑俗をきらって拒絶するのではなく、読書によって形成された生を間接化する力――生にたいしては本質的に暗示引用[アリュージョン、引喩]にほかならない読書から得られた知によって、卑俗も含めた生の直接性を捨象して、生全体を抽象化し観念化することによって、反転して生と世界とを全称的に肯定することのできる穆如たる心の作動――によって、喧騒と静寂また卑俗と風雅の即事的な差異を撥無して、世界の中に確固たる生の位置を占めうるまでに彼の精神を育てるものであるからである。」(p.247)
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目次 http://honto.jp/netstore/pd-contents_0602735661.html
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前身の『遊字典』(冬樹社、1984→角川文庫、1986.8)の方が、序文やコラムなどが充實してゐました。改題後は、凡例で出典を『明治文学全集』だと明記したのが取り柄ですが、氣取った序文「Prefaceのようなメッセージ」は「はじめに」に差し替へ、コラムは何本か削られました。古本で角川文庫版を探すことをお奬めします。その浦達也の解説はニュー・アカ・ブームの影響が濃厚で、時代色が窺はれて愉快です。
http://d.hatena.ne.jp/higonosuke/20070201#c1170614917
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[最終更新] 2014-09-29
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http://d.hatena.ne.jp/uakira/20120416#c1336582180
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目次 http://www.tsugeshobo.com/herohtml/book07030912282700.shtml
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