ぼくの創元社覚え書

龜鳴屋 / 2013-10-10刊 / ¥1,600
購入: 2015-03-27  /¥1943
未読 本・図書館

[投稿日] 2015-03-27

 「限定五四〇部」と奧附刊記にあり。國會圖書館所藏無し。
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BB14600914
http://blog.goo.ne.jp/coffeecup0816/d/20131023
http://sumus2013.exblog.jp/20707665/
http://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/bunka/list/201311/CK2013112902000225.html

ヘーゲル以後の歴史哲学―歴史主義と歴史的理性批判 (叢書・ウニベルシタス)

法政大学出版局 / 1994-07刊 / - /
讀了: 2010-10-05 人文・思想

[投稿日] 2010-10-05

 譯者(古東哲明)の〔 〕による補足が必要以上に多い。
 卷末「文献表」に邦譯を補ってあるのは哲學書ばかり、マイネッケすら漏れてゐるってどういふこと? 
 その分析はなかなか讀解の參考になるものの所詮は哲學者の論、哲學史に限定されてをり、歴史家であるブルクハルトやドロイゼンの章を立ててゐるとはいへ、科學史(學問史)に及ばない。「歴史認識の実践〔暗黙裡の行為〕を哲学的に解釈することと、その歴史認識の実践自体との、事柄としては必然的なつきあわせ〔対比〕を、おこなわないままにとどめざるをえなかった。そうしたつきあわせ〔対比〕は、科学史家との共同作業をつうじてのみ、なされるべきだからである」(p.38)。これだから哲學者って……カッシーラーやフーコーの爪の垢でも煎じて飮め。 
cf. 笠原賢介譯ヘルベルト・シュネーデルバッハ「歴史における‘意味’?――歴史主義の限界について――」http://hdl.handle.net/10114/3995

フリードリッヒ・マイネッケ研究―その歴史的政治的思考における国民国家とヨーロッパ的世界 (1965年) (学位論文叢書〈1〉)

)一橋大学一橋学会 / 1965刊 / - /
讀了: 2010-09-10 古書

[投稿日] 2010-09-11

 著者の見方からすればもっと嚴しくマイネッケを批判できるはずなのに、何だか遠慮してゐるみたいな。そもそも、歴史研究を國家の現代政治に關はらせなければならぬといふ當爲がどうしてそんなにも強迫觀念であったのやら、そこからして大いに疑問とならうに。これでは概念史とはまるで政治倫理・政治道徳史であるかのやうだ。

ふらんす 1984年9月号

白水社 / 1984-09-01刊 / ¥480
購入: 2015-09-26  /¥100
未読

[投稿日] 2015-09-26

「特集:フーコーの遺したもの」
荒川幾男「フーコー――思想史的スケッチの断章」
野村英夫「bとpの間」
田村俶「賢者としての歴史家の死」
目次 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/7971339?tocOpened=1

ビザンツ世界の思考構造―文学創造の根底にあるもの

岩波書店 / 1978-04刊 / - /
購入: 2010-09-04  /¥100
未読 文学・評論

[投稿日] 2010-09-04

 クルツィウス『ヨーロッパ文学とラテン中世』流のレトリック論でもある。
 大塚信一『理想の出版を求めて』に編輯の回想あり。
http://www.transview.co.jp/books/4901510428/top.htm

ハリネズミと狐――『戦争と平和』の歴史哲学 (岩波文庫)

岩波書店 / 1997-04-16刊 / ¥2,290
購入: 2010-09-23  /¥251
讀了: 2010-09-23 歴史・地理・旅行記

[投稿日] 2010-09-23

 主題のトルストイ論としてよりそれと重ねられるジョゼフ・ド・メーストル論を中心に展開して貰ひたくなる(そしたらカール・シュミットと對照する興味も出るし)。それでは人目を引くまいが――『バーリン選集4 理想の追求』所收「ジョセフ・ド・メストルとファッシズムの起源」を讀むべきか。
 バーリンが「現実感覚」(p.116)と呼ぶ概念を可能性感覺(ムージル/大川勇)と裏腹のものとして讀み換へられよう。自由と責任などといふ道徳臭のする議論(カントにおける實踐理性の問題)としてよりも、歴史の認識論として受け取ってやりたい(可能性と言っても、鹿島徹『可能性としての歴史』みたいだと不滿だが)。「かわりの可能性――「そうなったかもしれない」を計算するわれわれの能力の弱さから生ずる限界」(p.133)といふ限界づけ、これはそれと明示されてないがカント流の批判主義であらうから、求められるのは歴史的理性批判(ディルタイ)といふことになる。いや、歴史的判斷力批判か? 願はくは、現實感覺/可能性感覺の樣相論が歴史敍述に即して思考せられむことを。

ノーサイド 一九九五年七月号「特集「むかし戦争に行った。」」

文藝春秋 / 1995-07-01刊 / ¥540
購入: 2016-08-28  /¥0
未読 ノンフィクション

[投稿日] 2016-08-28

 特輯タイトルは背・目次では「むかし戦争に行った」で句點無し。
 一九九四年八月號「異色の「父と子」100組」九五年四月號「近代日本 夢の旅人」五月號「読書名人伝」に續く人物列傳形式の特輯。七十五人に就て保阪正康、丹野達弥、縄田一男、田中眞澄、小沢信男、佐伯修、坪内祐三、大月隆寛、で分擔執筆。但し坪内は野口冨士男のみ、大月は火野葦平のみの執筆。
http://www.re-make-re-model.com/no-side.htm

ニッポンの書評 (光文社新書)

光文社 / 2011-04-15刊 / ¥799
購入: 2011-05-04  /¥0
讀了: 2011-05-05 本・図書館

[投稿日] 2011-05-04

 こんなに本が好きなのに、自分には興味の無い世界がこれほどあるなんて、書物の世界は廣い廣い。逆に言へば、世間普通の讀者はここにあるやうな本への關心が大半なので、自分が偏り過ぎてゐるのだらうが。著者は書評と評論・批評とを截然と分けてしまってゐるが、書評といふか正確に呼ぶなら現代小説の新刊紹介、サマリーだな、これは。それはそれで藝を磨いてくれればよいけれど、では、さうでない意味での人文書讀みのための書評論は那邊にありや。

http://d.hatena.ne.jp/leeswijzer/20110505/