[投稿日] 2015-04-25
外山滋比古「現代読者論」
吉田精一「小説の研究態度」
関良一「『当世書生気質』と『浮雲』――日本近代小説への序説――」
ほか
[投稿日] 2015-04-25
外山滋比古「現代読者論」
吉田精一「小説の研究態度」
関良一「『当世書生気質』と『浮雲』――日本近代小説への序説――」
ほか
[投稿日] 2015-04-24
或る種の書物人の代表としての朝倉治彦の名が氣に懸ってゐたため碌に追悼文も出ないのは惜しく念ってゐたが、辛うじて大學の縁でこのやうな記録が纏まったのは、有り難い。「経歴と業績年譜」(pp.10-24)は朝倉自身の原稿に基づいて生前に補正を進めてゐたものとのこと。
卷末「『近世文学会会報』既刊号細目(第一~二十号)」のみならず、小島瓔禮「明日へのために――國學院大學近世文学会」のこと――」、中村正明「『澁谷近世』と朝倉治彦先生」等のあることで、ちゃうど二十號までの雜誌と研究會の來歴を振り返る號となった感がある。
目次 http://kinbun.jugem.jp/?eid=1185
[投稿日] 2015-04-19
新書判にて小事典の概あり。一九九一年改訂版で増ページ、一九九四年改訂第2版、さらに二〇〇三年版にて「1994年刊の改定第2版に修正が加えられた事は出版者に確認済である」とのこと。
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BB03254822
目次 http://www.zuroku.jp/kokusaihanga/1260001.php
[投稿日] 2015-04-19
著者本名は相良徳三。「卷頭の「大衆文學論」は、[……]昭和十六年に雜誌「文藝情報」に連載したもの」(「跋」p.332)。尾崎秀樹『大衆文学論』所收「伊集院斉論」を見よ。
目次 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1069499
一九三五年創刊『懸賞界』→一九四〇年(四月?)改題『文藝情報』は、投稿雜誌の末流として曾て曾根博義らも注目せる所にて、刊行圖書には懸賞目當ての投稿青年に向けた文章・文藝指南の通俗書多く、日本文藝研究會編『文藝作り方講座』(櫻華社、一九三六~)上中下篇は中々の執筆陣。三輪健太郎『短篇小説の作法と解剖 プロツト・ブツク』(櫻華社出版部、一九四一年五月五版)を二〇一一年十二月に購入せしことあり。
Cf. http://www.geocities.jp/moonymoonman/i/bungeijouhou.txt
[投稿日] 2015-04-18
送付状挾み込み。三木清、戸坂潤等を載す。法學關係者も少なからず。
[投稿日] 2015-04-18
非賣品。「十三」は目次に續く内題より採ったが『第二十集』にても同數、意味不明。編輯した法政大学史資料委員会の議長は飯田泰三、委員は安岡昭男・高橋彦博・芥川龍男。
人名毎に各種名鑑・人物事典及び追悼記事類から抄録。安部能成に始まり内田榮造(百閒)や和辻哲郎・林達夫等、漱石山脈や岩波書店に連なる人脈が目立つ。
[投稿日] 2009-10-29
目次 http://www.cafecreole.net/onbooks/
[投稿日] 2015-04-10
表紙右に「經濟往來第十卷第八號(昭和十年八月)所載別刷」と印字す。修正書込み四箇所あり。
内容は『大塚金之助著作集』でも讀めようが、學術雜誌でない純然たる商業誌への寄稿で拔刷を作らせた例は珍しいので。そんな出版社を困らせる我が儘な所業、柳田國男の「橋姫の話」(『女學世界』一九一八年一月)以外に見たことない。
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BA57517531
[投稿日] 2015-04-10
石井正己「柳田国男の創元選書」(初出一九九六年→『テクストとしての柳田国男 知の巨人の誕生』三弥井書店、二〇一五年一月、p.232)にて言及せられし小册子。
六篇の書評文を收めるが、最後の「食物と心臟」のみ何からの再録か初出を記してない。
[投稿日] 2015-04-10
季刊。表紙のみ「愛書と趣味」と冠稱あり。
[投稿日] 2015-03-29
文学と教育の会の代表は大久保典夫。根本正義・曽根博義ら二十三名追悼文寄稿、薬師寺哲子・野中潤編「薬師寺章明著作目録」、薬師寺哲子「薬師寺章明年譜」。
目次 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/7954850
[投稿日] 2015-03-27
「限定五四〇部」と奧附刊記にあり。國會圖書館所藏無し。
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BB14600914
http://blog.goo.ne.jp/coffeecup0816/d/20131023
http://sumus2013.exblog.jp/20707665/
http://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/bunka/list/201311/CK2013112902000225.html
[投稿日] 2015-02-15
卷頭獻辭「此書を虔んで/宮島新三郎君の靈前に獻じ/友誼の微忱を表す。」――著者(一八九二年生・一九三四年歿)は木村毅・柳田泉の學友ではあったが、後年の回想を見ると兩者からの學問的評價は低い。本書末の柳田泉「附言」にも曰く、「それにしてはその基礎を實證的に今少し固めるべきであつたのだ」……。又曰く「僕は校訂の任に當つたが考ふるところがあつて、一二事實の誤謬や文字の誤謬を訂正した外は、殆んど全部宮島君の書いたまゝにして置いた」。
收録四篇中「日本文學に及ぼしたる西洋文學の影響」には「――主として批評文學について――」と副題あり。「批評中心といふので、自ら明治批評史となつてゐる、これは短い割合に纏つて居り、文章にも光彩があり、宮島君の興味の集中されてゐた問題だけに、「君ならでは」といひたいものがある」(柳田泉「附言」p.202)。
目次 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1236355
[投稿日] 2015-02-15
「講談社社友会創立十周年記念出版」、非賣品。
[投稿日] 2015-01-23
ミネルヴァ書房創業社長の回想と旅行記、非賣品。倍以上に増補された一九九八年九月刊の改版は何度か古本で目にして入手濟みだが、この初版は輕裝の所爲か見掛けない。
[投稿日] 2015-01-03
大学院教育学研究科の前身。今井卓爾、紅野敏郎、中西秀男ら寄稿。
目次 http://library.main.jp/index/jst10482.htm
[投稿日] 2009-11-15
やっと安く買へた。讀みやすく、面白い。
ここでの民衆による「仁政」觀念に對する把握は、モラル・エコノミー論に「示唆をえた」もの(卷末「文献案内」pp.6-9)。幾分か經濟人類學的でもあるこの概念は批判もあって問題含みだが、市場制度に基づく政治經濟(學)に對抗する被治者側の「正当性」(p.53)(=正統性)論といふ意味では興味深い。眞に造反有理と言ふか、アナーキーな感情的暴發に見えてもそれなりに用意された理法があったわけ(人格的な「徳義」として語られるのが限界であれ)。I章「2 仁政と徳義――強者の責務――」參照、特に傳室鳩巣「不亡鈔」を引くあたり(p.49)は「封建契約」とは言ひ條いささか社會契約説にも近づくかの如し。
Cf. 『本に溺れたい』2010年4月19日「モラル・エコノミー Moral Economy を巡る若干の議論」http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2010/04/moral-economy-4.html
按ずるに。そも客分とは、「まったくの家臣や雇い人などでもなく、家族でもない」(『日本国語大辞典』)。自分の土地を持たぬ借地借家人であり食客であり寄寓者である。柳田國男「居候及び厄介」が取り上げたヤカヰ(家居)。したがって定住の豪農地主層(士族と違って財産選擧制を支持する改進黨系の「富裕な農民民権家」p.92)とは合致しないが、これが寄生地主・不在地主となって土着性を失ってゆけば、地域から遊離した客分になるだらう。徂徠の所謂「旅宿の境涯」。治者でさへ客分意識を脱し難かったこと(國替へ後の大名・武士の例、p.47)は松尾純子評が注目してゐた――「客分意識はなにも民衆の意識であるとは限らず,治者や富者の意識でもありえるのだ。」(『大原社会問題研究所雑誌』489〈書評と紹介〉、一九九八年八月、p.47)
Cf. http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/489/
民衆史の枠を外して考へ直してはどうだらう。「はじめに」で民衆以外の例に夏目漱石を引いた後、「しかし今回は、こうした自覚的に選択された客分意識は視野の外においておく」(p.16)と議論はお預けにされてゐた。然るに「おわりに」の結び近くになって、「今のわたし(たち)は、現前する国民国家の共同性に眼をつむることなく、しかもそこから不断に乖離するよう努める、いいかえれば自らの存在被拘束性に対峙しつづける、そんな自覚的・自律的な客分であることが求められているように思われる」(p.239)との見通しが告げられる。それを論ずるつもりなら、一つには、「III 国民化の回路」以下に敍述した流れから外れて「客分に自足した矜持を保」(p.196)ったままナショナリズムの一體感(對外問題や祝祭化や普選運動)にも同調しなかった事例(むしろ例外者にせよ)に就く手がある――例へば「逆にエリートのなかには秩序からの自覚的な逸脱や国家への懐疑も生まれる」(「IV 仁政のゆくえ」p.204)とか。さらには、民衆史そのものよりも民衆論の言説史・思想史に入る手もあらう。「「民衆」を論じる者が民衆でありえないのは自明だが、抜きがたい客分意識を共有するかぎりで、わたしは自分を民衆のはしくれと思いたがっている」(「おわりに」p.239)と自ら言ふ、そのやうな意識の系譜學。
民衆と共に政治への拘泥も自縛に見える。副題に「近代民衆の政治意識」とある通り「客分意識はたんなる政治的無関心ではない。「赤髭が威張ろうが、安穏に生活できればいい」という意識もまた、ひとつの政治意識である」(p.12)と斷じ「経世済民」の語を擧げて「近世民衆にとって、経済と政治ははっきり分けられるようなものではなかった」(「I 民衆にとっての〈政事〉」p.68)と述べるのだが、これでは客分を稱する態度が非政治性の表明である面が見落とされてしまふ。一部アナキストみたいに反政治的 antipoliticalとなるのみならず、そんな積極的な政治の排除よりも脱政治的 depoliticalとか無政治的 apoliticalあたりか(丸山真男「政治的無関心」『政治学事典』平凡社、參照)。鼓腹撃壤、帝力我に何かあらんや。また本書で國學は「仁政と客分を否定する論理」に使はれたことで取り上げられるが(pp.76-78)、松本三之介『国学政治思想の研究』が説いた國學における被治者の非政治性と併せ見ると如何。
http://homepage3.nifty.com/tanemura/re2_index/M/makihara_norio.html
[投稿日] 2014-12-29
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1872504/6
[投稿日] 2009-10-29
ドイツ法學の權威が定年近くになって現代思想へ踏み出した志向を示す論集。基本的に泰西諸説を綴り合せて調停しながら論を成し、自家獨立の識見は窺ひ難い。よく勉強してあって秀才らしく整理されてゐるものの輸入學問といふか飜譯的知性といふか。語學力無き菲才の身には要約紹介として役立つ。
「IV 歴史と偶然」は問題提起に留まって結論に及べなかったやうだが、材料は面白い。「歴史概念の変遷」に就きラインハルト・コゼレック『歴史基本概念事典』「歴史」の項目を紹介した上で、カントの歴史哲學にとって偶然性が問題となる所以をマンフレート・ゾンマーの解釋に從って考察したもの。
書き下ろし新稿「VI ヨーロッパの近代とポストモダン」も、人文主義的文化を論じて興味そそる。そこで使はれたスティーヴン・トゥールミン著はその後『近代とは何か その隠されたアジェンダ』と題して出た譯書で讀めるが、それ以上に著者に評價され、近代の辯神論について引證されるオード・マルクヴァルト『偶然性の弁護』が譯刊されぬものか……。せめても邦譯のある「人文科学の不可避性について」(中尾健二譯、『静岡大学教養部研究報告 人文・社会科学篇』29-1、1993.9#)をウェブで讀む。
# http://dx.doi.org/10.14945/00005159
本書全體を通し、ポストモダニズムに引き寄せて再評價されるロマン主義思想等は、掬すべきものありにせよ、今となってはドイツ特殊事情に偏した時論めいてしまって共感を興すまい。それよりも、合理主義や統一性に對する「偶然」「偶発性」をキイワードとして讀み直す方が面白い(卷末「索引」に立項あり)。――例へば、「II 近代化と合理主義・反合理主義」で引證されるロルフ・グリミンガーの論にクリスティアン・トマージウスが取り上げられてゐたが、法律家でもあったトマジウスが蓋然性論でも知られたことは偶然性に注意する觀點からは見逃せない筈。で、手代木陽『ドイツ啓蒙主義哲学研究――「蓋然性」概念を中心として』(二〇一三年)を讀むと……?
目次 http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2011/05/1992-34da.html
http://book.geocities.jp/studia_humanitatis_jp/newbooks2003.html
[投稿日] 2014-11-14
二〇一四年六月に『2』が續刊。