ハリネズミと狐――『戦争と平和』の歴史哲学 (岩波文庫)

岩波書店 / 1997-04-16刊 / ¥2,290
購入: 2010-09-23  /¥251
讀了: 2010-09-23 歴史・地理・旅行記

[投稿日] 2010-09-23

 主題のトルストイ論としてよりそれと重ねられるジョゼフ・ド・メーストル論を中心に展開して貰ひたくなる(そしたらカール・シュミットと對照する興味も出るし)。それでは人目を引くまいが――『バーリン選集4 理想の追求』所收「ジョセフ・ド・メストルとファッシズムの起源」を讀むべきか。
 バーリンが「現実感覚」(p.116)と呼ぶ概念を可能性感覺(ムージル/大川勇)と裏腹のものとして讀み換へられよう。自由と責任などといふ道徳臭のする議論(カントにおける實踐理性の問題)としてよりも、歴史の認識論として受け取ってやりたい(可能性と言っても、鹿島徹『可能性としての歴史』みたいだと不滿だが)。「かわりの可能性――「そうなったかもしれない」を計算するわれわれの能力の弱さから生ずる限界」(p.133)といふ限界づけ、これはそれと明示されてないがカント流の批判主義であらうから、求められるのは歴史的理性批判(ディルタイ)といふことになる。いや、歴史的判斷力批判か? 願はくは、現實感覺/可能性感覺の樣相論が歴史敍述に即して思考せられむことを。

読書人の没落―世紀末から第三帝国までのドイツ知識人

名古屋大学出版会 / 1991-05刊 / ¥5,940
 /¥0
讀了: 2010-09-25 社会・政治

[投稿日] 2010-09-25

 スチュアート・ヒューズのドイツ特化版(時代はやや古い)みたいなもので、讀み易い。例へば、Idealismが觀念論でなく理想主義といふ實踐倫理上の意味に解されてしまふ事情など、知られてゐることかもしれないが、ハッキリ説明した本を他に見た憶えがない。これ一卷でおよそ、ドイツの人文學者(延いては近代日本の教養主義者)の道學先生ぶり、空疎な政治志向(謂はば不純な非政治性、ex.p.74)の由って來る所以が呑み込める。マイネッケはあれでもましな方だったわけだ、著者の謂ふ「正統派」に比べれば。對する「近代派」の中でもマックス・ウェーバーだけ評價がやけに高く、確かに優れてゐたのは認めるにせよ、果して同時代にあってそんなにも孤立してゐたのかは不審である。また西村稔「訳者あとがき」は法學者があまり取り上げられてゐないことを指摘するが、法學にも史學にも範型を提供した文獻學(このことは數學史の佐々木力さへ特筆する所だ)への言及にも乏しい。フンボルト以來の新人文主義の理念が古典に親しむものであることから言っても、文獻學の檢討が求められる。ヴェルナー・イェーガーは何度か出てくるが……曽田長人『人文主義と国民形成 19世紀ドイツの古典教養』(知泉書館、二〇〇五年)に就くべきか。 
 ところで、大學知識人をmandarinsに喩へそれを「読書人」と譯すのはよいとして、では、大學の教育職に屬さぬのは勿論のこと、國民やら國家やらと無縁な逸民であり、端っから沒落してゐる「讀書人」の歴史は何の本で讀めばいいのかね? これほどまでにドイツ精神主義者どもの反面教師ぶりを見せつけられながら、なほも現代日本における「知識人の使命」を問ひ敢へて「精神」論を説く「訳者あとがき」は、悲壯な決意と言ふより士大夫を氣取りたがる大學人の度し難き頑迷さを感じさせる。

文体序説 (1967年)

新読書社 / 1967刊 / ¥864
購入: 2010-09-26  /¥500
讀了: 2010-10-01 古書

[投稿日] 2010-09-26

 愚著。前半の方法論は、文學志向による「スタイル」概念への過大負荷、理論の體を成さない。後半はただの詩論。これだから詩の好きな奴って……『修辞学の史的研究』はマシだった筈だが。こんなものが研究史上特筆される(吉武好雄「日本における文章論の発達」)のは文體論研究の程度の低さを示すものだらう。増訂版(一九七一年)を探す必要もあるまい。「まえがき」に後の『筆蹟の美学』(→改題『筆跡の文化史』)に至る問題意識を見られ、「あとがき」から服部嘉香との交流が窺へたくらゐが精々收穫か。舊藏者名「伊藤富士麿」と印あれど他に書き込み等無し。

知の歴史社会学―フランスとドイツにおける教養1890~1920

名古屋大学出版会 / 1996-03刊 / ¥13,475
 /¥0
讀了: 2010-09-26 社会・政治

[投稿日] 2010-09-26

 副題にある「教養」よりは「教育」を論ずる。フランスの教育制度や教育改革について記述した前半は退屈。後半、第4章以降やうやく思想史らしくなってきて、ランソン、セニョーボス、デュルケームらの言説(專ら教育論だが)が紹介され考察されると興味が湧く。特に、歴史主義及びフランス史學史に關しては。しかしドイツとの對比はあまり成功してないと思ふ。

メディア・リテラシーの社会史

青弓社 / 2005-12刊 / - /
購入: 2010-09-27  /¥500
未読 社会・政治

[投稿日] 2010-09-27

 理論的ディシプリン(訓練)が足りないまま、理論めかした感想文をあまり適切でもない事例を適當にまぶして綴ってゐる感じ。

目次 http://www.seikyusha.co.jp/wp/books/isbn978-4-7872-3252-6
http://www.seikyusha.co.jp/wp/rennsai/yohakuni/blank44.html

歴史主義 (1970年) (社会科学ゼミナール)

未来社 / 1970刊 / ¥454
購入: 1995-11-04  /¥200
讀了: 2010-09-29 古書

[投稿日] 2010-09-29

 一九九六年に讀んで誤植を訂した形跡まで殘ってゐるのに、内容は全く記憶に無くなってゐた。 
 マンハイムは、歴史主義の弊とされる價値相對主義はリッケルト流認識論の「絶対的形式化」から來ると批判し、空虚な形式主義にならず實質的な内容を以て充たしてこそ眞の歴史主義だと提言するわけで、不變のアプリオリと見られがちな形式や範疇とて時代毎の歴史性に拘束されたものだといふ指摘には同意するにせよ、さういふ當人の議論が專ら抽象論であり、固有名詞や文獻を擧げて内容を具體的に引照しながらそれらと挌闘する歴史實證的な姿勢に乏しいのは、所詮はドイツ精神主義・觀念論の圈内に拘束されてゐたのか。ともあれ、トレルチが歴史主義の二大特徴とした個別性と發展とのうち、前者に偏るマイネッケ流が多い中で後者を重視したマンハイムもゐたといふ見取圖は得られた。と言っても、發展概念を辨證法のダイナミズムの方向で活かさうといふマンハイムの試みは解決になるまい。
 マンハイムの本文は別に難解ではないが、むしろ卷末の徳永恂「〔解説〕マンハイムと歴史主義の問題――一九二〇年をめぐる思想史的覚え書――」の方が力篇だけどいまひとつ解りにくい。

権力の読みかた―状況と理論

青土社 / 2007-07-01刊 / ¥1,944
購入: 2010-10-03  /¥300
讀了: 2010-11-16 社会・政治

[投稿日] 2010-10-03

 筆名・萱野三平(なんで?)。
 前半はわかりやすい情勢論、現代時事に關心無いのでふうんさうかと思ふだけ。後半のフーコー論は部分的には拾へる知見があるが、あやふやな抽象性の域で論じてをり、歴史研究の具體性に結びつける必要があらう。

ヘーゲル以後の歴史哲学―歴史主義と歴史的理性批判 (叢書・ウニベルシタス)

法政大学出版局 / 1994-07刊 / - /
讀了: 2010-10-05 人文・思想

[投稿日] 2010-10-05

 譯者(古東哲明)の〔 〕による補足が必要以上に多い。
 卷末「文献表」に邦譯を補ってあるのは哲學書ばかり、マイネッケすら漏れてゐるってどういふこと? 
 その分析はなかなか讀解の參考になるものの所詮は哲學者の論、哲學史に限定されてをり、歴史家であるブルクハルトやドロイゼンの章を立ててゐるとはいへ、科學史(學問史)に及ばない。「歴史認識の実践〔暗黙裡の行為〕を哲学的に解釈することと、その歴史認識の実践自体との、事柄としては必然的なつきあわせ〔対比〕を、おこなわないままにとどめざるをえなかった。そうしたつきあわせ〔対比〕は、科学史家との共同作業をつうじてのみ、なされるべきだからである」(p.38)。これだから哲學者って……カッシーラーやフーコーの爪の垢でも煎じて飮め。 
cf. 笠原賢介譯ヘルベルト・シュネーデルバッハ「歴史における‘意味’?――歴史主義の限界について――」http://hdl.handle.net/10114/3995

隠喩・神話・事実性―ミハイル・ヤンポリスキー日本講演集

水声社 / 2007-05刊 / ¥2,160
讀了: 2010-10-06 文学・評論

[投稿日] 2010-10-06

 興味持って讀めたのは「文献学化――ラディカルな文献学のプロジェクト」(乗松亨平譯)のみ。ヴォルフに發する近代文獻學の歴史を顧みるに、シュライエルマッハー→ディルタイの解釋學に至る正統哲學路線に抗してフリードリヒ・シュレーゲル及びニーチェの非正統的な文獻學があったといふ見取圖で、刺戟的ではある。曰く、「哲学者たち」が「テクストを現在の必要に適合させる」ため「アレゴリー的解釈を発明し」た一方、文獻學者は「ロゴスの中継にのみ関わり意味には関与しない」(p.72)。「文献学が、理解する無理解という学問として興った」……「文献学がテクストの意味を理解しない学問として自己規定するのは」(「理解しない」に五字傍點)……「文献学は哲学により形成される。その分身として、理解[二字傍點]を希求する哲学に対する批判として、反省されざるものという哲学に不可欠の層に関する知として」(p.73)。ここでシュレーゲルの「無理解について」(山本定祐譯「難解ということについて」)のイロニー論を持ってくるのは、うまい。また「ロゴスの物質性」(p.73)の傳承を事とする、その意味での文獻學は、殆どメディア論に接近してゐる。でも最後にハイデガーなんかで締め括るのは勘辨な。それでは結局哲學になってしまふ。もっとラッハマンとかシュピッツァーとかアウエルバッハとか檢討すべき文獻學者が居るでせうが。
cf.http://members.at.infoseek.co.jp/studia_humanitatis/RhetoricabookIII.html
http://6728.teacup.com/humanitas/bbs/t2/l50

理想の追求 (バーリン選集 4)

岩波書店 / 1992-09-24刊 / ¥5,033
讀了: 2010-10-07 人文・思想

[投稿日] 2010-10-07

 バーリンの多元主義は相變らずだが、「理想の追求」(河合秀和譯)「ジャンバティスタ・ヴィーコと文化史」「一八世紀ヨーロッパ思想におけるいわゆる相対主義」(田中治男譯)、特に第三論文では、ヴィーコ及びヘルダーについて自身の過去の理解の誤り(p.67)を修正して、相對主義と多元論との違ひが強調される。成程さうかもしれぬ。しかし微妙な差であり、理論である以上に實踐に關はるだけに、維持するのが難しからう。よしんばヴィーコやヘルダーの歴史主義的懷疑論が相對主義に陷らなかったにせよ十九世紀以降の思想がさうでなくなったのはバーリンも述べる通りなのだから、もはや歸還不能點を越してしまってないか。相對主義は歴史について非合理的な諸力による決定論を認めるところから生ずるとするのも、再考の餘地あるべし。第三論文は初出が一九八〇年、冒頭で「クリフォード・ギアツ」が引用されてゐるから(邦譯『文化の解釈学』に該當)、ギアーツの「反-反相對主義」論(初出一九八四年)と關係ありさう――『解釈人類学と反=反相対主義』(みすず書房、二〇〇二年)に就くべきか。かういふ同時代や過去との參照關係が判明でないのがバーリン(とその解説者)の敍述の物足りないところ。もっと註釋を!
 ギアーツを含む相對主義論については、浜本満の整理が有益と思ふ。
Cf. http://members.jcom.home.ne.jp/mi-hamamoto/research/published/anti-rel.html
http://members.jcom.home.ne.jp/mi-hamamoto/research/published/relativism.html
 なほ、期待した「ジョセフ・ド・メストルとファッシズムの起源」(松本礼二譯)はさほどでもなく(だって全體主義とか政治問題はノンポリに興味無いもの)、メーストルそれ自體よりも思想上は相容れないヴォルテールと對比した共通性を述べる所に面白味があった。思想内容よりも「シニシズム」(X節、pp.168,169)といふ態度において影響甚大であった、と。