歴史の構造 (1940年) (富山房百科文庫〈第109〉)

冨山房 / 1940刊 / - /
購入: 1995-11-09  /¥200
讀了: 2010-10-10 哲学・思想

[投稿日] 2010-10-10

 一九九五年末に買って、讀んだ形跡もある。が、内容全く記憶に無し。
 『ディルタイ著作集 第四卷 歴史的理性批判』(創元社、一九四六年十二月。書名はジャケット・表紙・挾み込みリーフレットによる、扉・奧附では「ディルタイ全集」)所收の別譯「精神科學に於ける歴史的世界の構成」を讀みながら對照したが、まるで得る所が無い。獨哲の連中は何を有り難がってゐたのやら。それは時代の限界とするにせよ、いま法政大学出版局がディルタイ全集を延々刊行中なのだが、こんなものに肩入れして大丈夫だらうか?

理想の追求 (バーリン選集 4)

岩波書店 / 1992-09-24刊 / ¥5,033
讀了: 2010-10-07 人文・思想

[投稿日] 2010-10-07

 バーリンの多元主義は相變らずだが、「理想の追求」(河合秀和譯)「ジャンバティスタ・ヴィーコと文化史」「一八世紀ヨーロッパ思想におけるいわゆる相対主義」(田中治男譯)、特に第三論文では、ヴィーコ及びヘルダーについて自身の過去の理解の誤り(p.67)を修正して、相對主義と多元論との違ひが強調される。成程さうかもしれぬ。しかし微妙な差であり、理論である以上に實踐に關はるだけに、維持するのが難しからう。よしんばヴィーコやヘルダーの歴史主義的懷疑論が相對主義に陷らなかったにせよ十九世紀以降の思想がさうでなくなったのはバーリンも述べる通りなのだから、もはや歸還不能點を越してしまってないか。相對主義は歴史について非合理的な諸力による決定論を認めるところから生ずるとするのも、再考の餘地あるべし。第三論文は初出が一九八〇年、冒頭で「クリフォード・ギアツ」が引用されてゐるから(邦譯『文化の解釈学』に該當)、ギアーツの「反-反相對主義」論(初出一九八四年)と關係ありさう――『解釈人類学と反=反相対主義』(みすず書房、二〇〇二年)に就くべきか。かういふ同時代や過去との參照關係が判明でないのがバーリン(とその解説者)の敍述の物足りないところ。もっと註釋を!
 ギアーツを含む相對主義論については、浜本満の整理が有益と思ふ。
Cf. http://members.jcom.home.ne.jp/mi-hamamoto/research/published/anti-rel.html
http://members.jcom.home.ne.jp/mi-hamamoto/research/published/relativism.html
 なほ、期待した「ジョセフ・ド・メストルとファッシズムの起源」(松本礼二譯)はさほどでもなく(だって全體主義とか政治問題はノンポリに興味無いもの)、メーストルそれ自體よりも思想上は相容れないヴォルテールと對比した共通性を述べる所に面白味があった。思想内容よりも「シニシズム」(X節、pp.168,169)といふ態度において影響甚大であった、と。

隠喩・神話・事実性―ミハイル・ヤンポリスキー日本講演集

水声社 / 2007-05刊 / ¥2,160
讀了: 2010-10-06 文学・評論

[投稿日] 2010-10-06

 興味持って讀めたのは「文献学化――ラディカルな文献学のプロジェクト」(乗松亨平譯)のみ。ヴォルフに發する近代文獻學の歴史を顧みるに、シュライエルマッハー→ディルタイの解釋學に至る正統哲學路線に抗してフリードリヒ・シュレーゲル及びニーチェの非正統的な文獻學があったといふ見取圖で、刺戟的ではある。曰く、「哲学者たち」が「テクストを現在の必要に適合させる」ため「アレゴリー的解釈を発明し」た一方、文獻學者は「ロゴスの中継にのみ関わり意味には関与しない」(p.72)。「文献学が、理解する無理解という学問として興った」……「文献学がテクストの意味を理解しない学問として自己規定するのは」(「理解しない」に五字傍點)……「文献学は哲学により形成される。その分身として、理解[二字傍點]を希求する哲学に対する批判として、反省されざるものという哲学に不可欠の層に関する知として」(p.73)。ここでシュレーゲルの「無理解について」(山本定祐譯「難解ということについて」)のイロニー論を持ってくるのは、うまい。また「ロゴスの物質性」(p.73)の傳承を事とする、その意味での文獻學は、殆どメディア論に接近してゐる。でも最後にハイデガーなんかで締め括るのは勘辨な。それでは結局哲學になってしまふ。もっとラッハマンとかシュピッツァーとかアウエルバッハとか檢討すべき文獻學者が居るでせうが。
cf.http://members.at.infoseek.co.jp/studia_humanitatis/RhetoricabookIII.html
http://6728.teacup.com/humanitas/bbs/t2/l50

ヘーゲル以後の歴史哲学―歴史主義と歴史的理性批判 (叢書・ウニベルシタス)

法政大学出版局 / 1994-07刊 / - /
讀了: 2010-10-05 人文・思想

[投稿日] 2010-10-05

 譯者(古東哲明)の〔 〕による補足が必要以上に多い。
 卷末「文献表」に邦譯を補ってあるのは哲學書ばかり、マイネッケすら漏れてゐるってどういふこと? 
 その分析はなかなか讀解の參考になるものの所詮は哲學者の論、哲學史に限定されてをり、歴史家であるブルクハルトやドロイゼンの章を立ててゐるとはいへ、科學史(學問史)に及ばない。「歴史認識の実践〔暗黙裡の行為〕を哲学的に解釈することと、その歴史認識の実践自体との、事柄としては必然的なつきあわせ〔対比〕を、おこなわないままにとどめざるをえなかった。そうしたつきあわせ〔対比〕は、科学史家との共同作業をつうじてのみ、なされるべきだからである」(p.38)。これだから哲學者って……カッシーラーやフーコーの爪の垢でも煎じて飮め。 
cf. 笠原賢介譯ヘルベルト・シュネーデルバッハ「歴史における‘意味’?――歴史主義の限界について――」http://hdl.handle.net/10114/3995

権力の読みかた―状況と理論

青土社 / 2007-07-01刊 / ¥1,944
購入: 2010-10-03  /¥300
讀了: 2010-11-16 社会・政治

[投稿日] 2010-10-03

 筆名・萱野三平(なんで?)。
 前半はわかりやすい情勢論、現代時事に關心無いのでふうんさうかと思ふだけ。後半のフーコー論は部分的には拾へる知見があるが、あやふやな抽象性の域で論じてをり、歴史研究の具體性に結びつける必要があらう。

歴史主義 (1970年) (社会科学ゼミナール)

未来社 / 1970刊 / ¥454
購入: 1995-11-04  /¥200
讀了: 2010-09-29 古書

[投稿日] 2010-09-29

 一九九六年に讀んで誤植を訂した形跡まで殘ってゐるのに、内容は全く記憶に無くなってゐた。 
 マンハイムは、歴史主義の弊とされる價値相對主義はリッケルト流認識論の「絶対的形式化」から來ると批判し、空虚な形式主義にならず實質的な内容を以て充たしてこそ眞の歴史主義だと提言するわけで、不變のアプリオリと見られがちな形式や範疇とて時代毎の歴史性に拘束されたものだといふ指摘には同意するにせよ、さういふ當人の議論が專ら抽象論であり、固有名詞や文獻を擧げて内容を具體的に引照しながらそれらと挌闘する歴史實證的な姿勢に乏しいのは、所詮はドイツ精神主義・觀念論の圈内に拘束されてゐたのか。ともあれ、トレルチが歴史主義の二大特徴とした個別性と發展とのうち、前者に偏るマイネッケ流が多い中で後者を重視したマンハイムもゐたといふ見取圖は得られた。と言っても、發展概念を辨證法のダイナミズムの方向で活かさうといふマンハイムの試みは解決になるまい。
 マンハイムの本文は別に難解ではないが、むしろ卷末の徳永恂「〔解説〕マンハイムと歴史主義の問題――一九二〇年をめぐる思想史的覚え書――」の方が力篇だけどいまひとつ解りにくい。

文体序説 (1967年)

新読書社 / 1967刊 / ¥864
購入: 2010-09-26  /¥500
讀了: 2010-10-01 古書

[投稿日] 2010-09-26

 愚著。前半の方法論は、文學志向による「スタイル」概念への過大負荷、理論の體を成さない。後半はただの詩論。これだから詩の好きな奴って……『修辞学の史的研究』はマシだった筈だが。こんなものが研究史上特筆される(吉武好雄「日本における文章論の発達」)のは文體論研究の程度の低さを示すものだらう。増訂版(一九七一年)を探す必要もあるまい。「まえがき」に後の『筆蹟の美学』(→改題『筆跡の文化史』)に至る問題意識を見られ、「あとがき」から服部嘉香との交流が窺へたくらゐが精々收穫か。舊藏者名「伊藤富士麿」と印あれど他に書き込み等無し。

知の歴史社会学―フランスとドイツにおける教養1890~1920

名古屋大学出版会 / 1996-03刊 / ¥13,475
 /¥0
讀了: 2010-09-26 社会・政治

[投稿日] 2010-09-26

 副題にある「教養」よりは「教育」を論ずる。フランスの教育制度や教育改革について記述した前半は退屈。後半、第4章以降やうやく思想史らしくなってきて、ランソン、セニョーボス、デュルケームらの言説(專ら教育論だが)が紹介され考察されると興味が湧く。特に、歴史主義及びフランス史學史に關しては。しかしドイツとの對比はあまり成功してないと思ふ。

読書人の没落―世紀末から第三帝国までのドイツ知識人

名古屋大学出版会 / 1991-05刊 / ¥5,940
 /¥0
讀了: 2010-09-25 社会・政治

[投稿日] 2010-09-25

 スチュアート・ヒューズのドイツ特化版(時代はやや古い)みたいなもので、讀み易い。例へば、Idealismが觀念論でなく理想主義といふ實踐倫理上の意味に解されてしまふ事情など、知られてゐることかもしれないが、ハッキリ説明した本を他に見た憶えがない。これ一卷でおよそ、ドイツの人文學者(延いては近代日本の教養主義者)の道學先生ぶり、空疎な政治志向(謂はば不純な非政治性、ex.p.74)の由って來る所以が呑み込める。マイネッケはあれでもましな方だったわけだ、著者の謂ふ「正統派」に比べれば。對する「近代派」の中でもマックス・ウェーバーだけ評價がやけに高く、確かに優れてゐたのは認めるにせよ、果して同時代にあってそんなにも孤立してゐたのかは不審である。また西村稔「訳者あとがき」は法學者があまり取り上げられてゐないことを指摘するが、法學にも史學にも範型を提供した文獻學(このことは數學史の佐々木力さへ特筆する所だ)への言及にも乏しい。フンボルト以來の新人文主義の理念が古典に親しむものであることから言っても、文獻學の檢討が求められる。ヴェルナー・イェーガーは何度か出てくるが……曽田長人『人文主義と国民形成 19世紀ドイツの古典教養』(知泉書館、二〇〇五年)に就くべきか。 
 ところで、大學知識人をmandarinsに喩へそれを「読書人」と譯すのはよいとして、では、大學の教育職に屬さぬのは勿論のこと、國民やら國家やらと無縁な逸民であり、端っから沒落してゐる「讀書人」の歴史は何の本で讀めばいいのかね? これほどまでにドイツ精神主義者どもの反面教師ぶりを見せつけられながら、なほも現代日本における「知識人の使命」を問ひ敢へて「精神」論を説く「訳者あとがき」は、悲壯な決意と言ふより士大夫を氣取りたがる大學人の度し難き頑迷さを感じさせる。

ハリネズミと狐――『戦争と平和』の歴史哲学 (岩波文庫)

岩波書店 / 1997-04-16刊 / ¥2,290
購入: 2010-09-23  /¥251
讀了: 2010-09-23 歴史・地理・旅行記

[投稿日] 2010-09-23

 主題のトルストイ論としてよりそれと重ねられるジョゼフ・ド・メーストル論を中心に展開して貰ひたくなる(そしたらカール・シュミットと對照する興味も出るし)。それでは人目を引くまいが――『バーリン選集4 理想の追求』所收「ジョセフ・ド・メストルとファッシズムの起源」を讀むべきか。
 バーリンが「現実感覚」(p.116)と呼ぶ概念を可能性感覺(ムージル/大川勇)と裏腹のものとして讀み換へられよう。自由と責任などといふ道徳臭のする議論(カントにおける實踐理性の問題)としてよりも、歴史の認識論として受け取ってやりたい(可能性と言っても、鹿島徹『可能性としての歴史』みたいだと不滿だが)。「かわりの可能性――「そうなったかもしれない」を計算するわれわれの能力の弱さから生ずる限界」(p.133)といふ限界づけ、これはそれと明示されてないがカント流の批判主義であらうから、求められるのは歴史的理性批判(ディルタイ)といふことになる。いや、歴史的判斷力批判か? 願はくは、現實感覺/可能性感覺の樣相論が歴史敍述に即して思考せられむことを。

自由論〈1〉 (1971年)

みすず書房 / 1971刊 / ¥1,080
 /¥0
讀了: 2010-09-20 古書

[投稿日] 2010-09-20

 どうも、著名で古典的でさへある本論「歴史の必然性」「二つの自由概念」を讀み直すよりも、それが受けた批判に應へた「序論」を讀んだ方が力點が鮮明で面白いやうだ。
 この際、「人間性」などといふ道徳論を振り回す所や、正常でない除外すべき例として何かと狂氣を擧げる所など、現代思想からすれば引っ懸りを感ずる方面は目を瞑ってやるがいい。しかし、歴史家(や社會思想家)の用ゐる言葉に焦點を當てるやり方(pp.10-13,19,41-42.)は、オックスフォード日常言語學派の影響にせよ、言語論的轉回以降の理論に照らしてなほ古びてない。諸思想の相剋から思想問題自體の解消への動きを二十世紀の特徴としてバーリンが述べる時、そこにテクノクラシーやファシズムといった政治思想だけでなく論理實證主義やヴィトゲンシュタインの思考法も含まれ得ることに氣づいてゐたのかどうか。つまり、思想の問題を言語の問題へと解消する方法も、だ。またバーリンが(消極的)自由の名のもとに説く選擇や可能性の問題は、今日の讀者には、アガンベンが論ずる(非の)潛勢力と重ねて考へられよう。そんな想ひ着きは當然、政治思想方面で誰か物してゐるのかしれないが、むしろ歴史認識論において偶然論や可能世界論といった樣相論哲學を展開して貰ひたいものである。……「リアリズム(空想、生活の無知、ユートピア的夢想に対して)と呼ばれるものはまさに、生起したもの(あるいは、生起するかもしれないもの)を、起りえたはずのもの(あるいは、起こりえたもの)の文脈に据え、これと起りえなかったものとを区別する点に存するということ、そして(ルイス・ネーミア卿がかつて示唆されたことがあると思うが)結局のところ歴史の意味はこれに帰するということ」(「歴史の必然性」p.216)。

中央公論社と私

文藝春秋 / 1999-11刊 / - /
購入: 2010-09-17  /¥300
讀了: 2010-09-18 人文・思想

[投稿日] 2010-09-17

 著者の『和田 恒 追悼文集 野分』(私家版、1981)への寄稿にも拘らず、この本で和田のことは觸れる程度であったのは案外だった。和田の病死は高梨茂の部下であったことからくるストレスのためと暴露されてゐる(p.228)。高梨のことをもっと知りたい。上司としてはひどい人格だったらしいが部下ならぬ讀者には知ったこっちゃない、編輯者としては「職人肌」「完全主義」(p.184)で企劃にシブい古本趣味が良く出てゐた。その嗜好のつながりで言ふと、『歴史と人物』編輯時のことに存分に筆を割いて貰ひたかった。本人も「私の中央公論社編集者時代でもっとも充実した三年間」(p.217)と言ふ位だから、『中央公論』や『思想の科学』の内情のことなんかより餘程面白くなりさうに思ふ。内紛や外患による治亂興亡を敍する方がジャーナリズムの需めには合ふのだらうが、本好きにとってそんなに悦んで知りたい事柄ではあるまい。

振仮名の歴史 (集英社新書)

集英社 / 2009-07-17刊 / - /
購入: 2010-09-12  /¥322
讀了: 2010-09-21 言語学

[投稿日] 2010-09-12

 著者のマニアックな良さが新書判だと出せなかったやうで、ガッカリ。この程度が當今の新書に求められる「わかりやすさ」なのかも。
 チト驚いた豆知識をメモ。「『夜想』などの雑誌を出版していたペヨトル工房(一九七九?二〇〇〇)を主宰していた今野裕一は筆者の実兄であるが、筆者も「北野真弓」などという名前を使って『夜想』の編集の手伝いめいたことを少しの間していた」(p.147)。それだから『消された漱石』はあんな凝った版面設計だったのか?

戦間期日本の社会思想―「超国家」へのフロンティア

人文書院 / 2010-03刊 / - /
讀了: 2010-09-12

[投稿日] 2010-09-11

 引用文で當時は普通だった用字にまで「ママ」とルビを振るから、若い者の物知らずに見えてしまふ。註を見ると拔かりなく調べてある風なのだが、博搜にも拘らず、「序章」「終章」の問題設定が詰まらないのは取って附けたお體裁だからなのだらうか? 總體に考察や論評が弱く、折角掘り出した素材の旨味を生かせてないやうな。「あとがき」で池田浩士の談と云ふ「オタク精神」(p.455)とは、「精神」である以上、資料漁りの物慾にだけ發揮さるべきものではあるまい。といって超國家主義者たちの「非合理」の情念に共感されても下らない、如何に國家を超えるかなどと下手に眞面目ぶるよりも面白がりの態度を取った方が知的準位を保つことあるべし。次作でひと皮剥けることを期待。個々の事實の細敍については卒讀ではつきあひきれない、後日借り直すか。

歴史で考える

岩波書店 / 2007-03-28刊 / ¥5,184
讀了: 2010-09-10 歴史・地理

[投稿日] 2010-09-11

 大掴みな圖式を得るには役立つにしろ、細部に宿る神々を感じさせないのは歴史家としてのセンスを疑はせる。メタヒストリーなるがゆゑに概説になってしまったのかもしれないから、本領の歴史研究を讀んでから評定すべきだらうが、その意味で成田龍一と相通ずるのはわかる氣がする。「あとがき」(p.515)で「近年もっとも親密な「共同謀議者(co-conspirator)」である成田龍一」について「非常に複雑なテーマも明快な三点で説明できる超人的能力は私たちが見習うべきモデルを示してくれた」、って……巧まざる皮肉かね?

永原慶二著作選集〈第9巻〉歴史学叙説・20世紀日本の歴史学

吉川弘文館 / 2008-03刊 / ¥19,440
讀了: 2010-09-10

[投稿日] 2010-09-11

 惡い意味での思想史なのか? 歴史家の思想傾向・イデオロギーの裁斷で以て史學史を敍述したつもりになるのは止してもらひたい。特に、『20世紀日本の歴史学』「I 近代歴史学の成立」で大正・昭和戰前の史學を述べる段(本領である戰後歴史學を扱った「II 現代歴史学の展開」はまだしも役立つのだが)。情報量不足で知識の得られない歴史書なんて讀むに堪へない。思想の前に、もっと知識を! 清原貞雄『増訂日本史學史』(1944)の方が餘程立派だ。

明治時代の歴史学界―三上参次懐旧談

吉川弘文館 / 1991-01刊 / - /
讀了: 2010-09-10 ノンフィクション

[投稿日] 2010-09-11

 關心薄い分野ですら學者爺いの昔話を讀んでゐると面白くなってきてしまふのはなぜかしらん。 
 老人のそれからそれへの想ひ出話につきあふうち、高田早苗の美辭學は三上の代筆だ(p.40)とか、ひょんな一行一句が光って眼に飛び込んでくるのが嬉しい。無論、光を帶びるのは讀み手の照明の當て方次第にせよ。

ドイツ史学思想史研究 (1976年)

ミネルヴァ書房 / 1976刊 / ¥3,888
購入: 2013-11-23  /¥1500
讀了: 2010-09-10 古書

[投稿日] 2010-09-11

 期待したコゼレックらの概念史・社會史についてはこの本が取り上げた後の時代に屬すゆゑ論及されてなかった。概觀としてはよく調べてあるものの、對立する二項を取り出したところで論が終ってしまふのでもっと突っ込んだ考察が欲しい。これをちゃんと「思想」史とするには、哲學的訓練を經た上で諸概念の歴史的關係の内實を論理に即して考へ詰める作業が要る。
 本書刊行以降に發表された關聯論文として下記あり。
▼「ドロイゼンの「史学論」(一八五七)におけるGeschichteの問題 」名古屋大学教養部『紀要 A (人文科学・社会科学)』第23輯 、一九七九年三月
▼「ホイシにおける「歴史主義の危機」の問題 」名古屋大学教養部『紀要 A (人文科学・社会科学)』第25輯 、一九八一年九月
▼「戦間期ヨ-ロッパ歴史思想における「危機」の問題」名古屋大学教養部『紀要 A (人文科学・社会科学)』第30輯 、一九八六年二月
▼「『歴史的基礎概念事典』――〈Geschichte〉の項――」日本大学文理学部『學叢』第43號(昭和62年度)一九八七年十二月「特集 辞書・事典」