[投稿日] 2016-04-29
目次 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1234336?tocOpened=1
卷末索引は人名・事項混排だが、事項は僅少。
[投稿日] 2016-04-29
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卷末索引は人名・事項混排だが、事項は僅少。
[投稿日] 2009-10-30
[投稿日] 2016-04-23
國會圖書館所藏無し。
「後記」に曰く「この小史は曾つて戰爭中、早稻田の講義録に掲載したものである。ただし講義録に掲載されたのは文藝復興期までで、それ以後は紙型のまま空襲で灰になつて、ついに活字にならなかつた。幸ひ原稿が手許に殘つてゐたので、この刊行を成し得た譯である。」「自ら制約されるものがあり、特に近代から現代にかけての階級批評の歴史を説くことを後にのこした」(p.123)。
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BN05326179
[投稿日] 2011-06-01
哲學史を主題としながら、哲學者の非歴史性といふか歴史への鈍感ぶりを窺はせる一册となった。村井則夫「生の修辞学と思想史――ブルーメンベルクと『近代の正統性』――」(第4章)くらゐが例外か。それにしても思想家・哲學者に即した「人とその思想」形式が多くて、哲學史と稱するには歴史の流れを展望する視力に乏しい。一ノ瀬正樹「感覚的知識の謎――ロック認識論からするプロバビリティ概念の探究――」(第5章)なんか、ちゃんと歴史認識論につなげればもっと面白くなりさうなのだが。就中「過去的出来事の確率原理」に關し、量子力學における「波束の收縮」論が確率が確實性へと突然變化するのには觀察乃至觀測が關與すると見て、それを「瞬時の非連続的変化の機会」と表現したことにつき、「それはまるで、古典的な機会原因論者マールブランシュの語り方のように聞こえる」(p.190)と言ふ邊り、示唆深い。殊に、カール・シュミット『政治的ロマン主義』を歴史主義の潮流の中に置いて讀んだ者としては。小西善信「個物の問題」(第9章)も、近代は「個物の忘却史」(p.375)と斷ずる前に、なぜ近代史學に眼を向けなかったか。新カント派が「個性記述的 idiographic 」と呼んで歴史學の位置附けに苦心し、トレルチやマイネッケが歴史主義の原理として個性化を擧げたのは、アリストテレス以來「個物は曰く言ひ難し」とされる個物へと迫る試みであった筈。
目次 http://www.showado-kyoto.jp/book/b96715.html
[投稿日] 2009-10-29
收録文中「音読と黙読――歴史上どこまで確認できるか――」は、書物史に關心ある者にとりて必讀なり(初出の註を省けるは遺憾なれど)。
また「二人の古典学者について」等、文獻學者A・E・ハウスマン(詩人としてではなく)に就ての所述が殊に興そそる。前著『語学者の散歩道』(研究社出版、1991)のハウスマン評と併せ讀まば更に興味増すべし。おゝ偉大なる學匠詩人ハウスマンよ……ホンマ難儀なお人やなあ。
この愛すべき畸人と對比せられるもう一人の古典學者ギルバート・マリや、延いてはマリが傾倒せしジェーン・エレン・ハリスンらケンブリッジ・リチュアリストへの批判には專門柄傾聽すべき言あり。附記して參照を請うてゐる「悲劇の起源は祭祀か」(『現代思想』一九七三年八月號)も、讀まいでおかれうか。本邦にても福田恆存から西郷信綱まで依據せる『古代藝術と祭式』が誤謬學説なりけりと知られる。
文體は平易にして考證癖を含みつつ自づから諧謔味を漂はすあたり、手に入ったもの。著者も自覺の上ならむ、師・田中美知太郎の著を英譯する話や「ラテン語版『クマのプーさん』など」は文體論として讀むも可なり。但し後者にて指摘せられたる通り、ラテン語はおよそ樣々なることが言ひ得るも中に言ひにくきこともあり(p.173)とせば、その傳にて同樣に、柳沼の文章は趣味あれどもこの文體にては論じ切れぬことも何かあるべし。それは何か?
拙文「校正癖 あるいはコレクトマニア綺譚」で參照した。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/1959/GS/correct01.htm#sec2
[投稿日] 2010-12-26
「1973年1月26日増補第2刷」「1977年10月1日訂正第3刷」……ページ數に増減無いし増訂に際しての附記も無いからどこを改訂したやら、對校せねば判らないぢゃないか。
目次
https://www.yushodo.co.jp/recommend/13-04/04seiyou/index.html
https://www.yushodo.co.jp/book/9784841910476/
[投稿日] 2010-11-30
[投稿日] 2009-10-30
[投稿日] 2010-08-06
[投稿日] 2010-11-01
收録文中、總じて新しい年代のは今一つ。古いのは初出で讀んでゐたものも少なくない。差し引き收穫と思へたのは新出の「エンマ・ボヴァリーとリチャード・ニクソン」となるが、これは既讀の『「赤」の誘惑』の變奏曲(いや前奏か)。
目次 http://www.seidosha.co.jp/index.php?%C9%BD%BE%DD%A4%CE%C6%E0%CD%EE
[投稿日] 2015-11-25
神戸の一人出版社の社史。興味無い詩集が專門だが、『アラゴン・シュルレアリスト』『春山行夫ノート』の著者・小島輝正に關する記述が目當て。
[投稿日] 2015-09-19
目次 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130576?tocOpened=1
[投稿日] 2010-07-31
卷末「主要索引」(就中「人名」)が粗慢で頼りにならぬ。一體これは著者も編輯者も校正してないのか、と疑はれる。この分だと既藏の他の卷も索引を自分で取り直さねばなるまい。
[投稿日] 2009-11-15
[投稿日] 2009-11-15
[投稿日] 2014-11-14
二〇一四年六月に『2』が續刊。
[投稿日] 2015-10-23
目次 http://awatasan.web.fc2.com/kansoku/kyuuban/chyosyo/eiyuu/kyu_moku.html
一五、廉価多賣と出版資本主義の確立
一六、出版戰、弱肉強食の辯[目次では「辨」と誤植]
一七、圓本全集の運命
ほか
歿後編纂の「社會批評」。「編者序」は小栗慶太郎。三方小口を赤に染める。線引き多。
[投稿日] 2009-10-29
一般的には惡くない本だらう。讀んで新知識は得られ、ためにはなった。が、趣味ではない。
[投稿日] 2010-10-04
http://www.perikansha.co.jp/Search.cgi?mode=SHOW&code=1000000419
[投稿日] 2015-10-23
Ⅰ 追悼 生松敬三
Ⅱ 思い出の生松敬三
Ⅲ 書簡より
Ⅳ 主要著書をめぐって
Ⅴ 付記、年譜 他
通常卷末を締めるべき「生松敬三 年譜」「生松敬三 主要著訳書目録」が、續く生松み祢「夫 生松敬三とその周辺」(pp.357-472)の長さの餘り、所を失った感あり。その熱意の分、充實し行き屆いた編輯の一册で、饅頭本では上出來の部類だらう。生松み祢「あとがき」に「手さぐりの作業に手間どりまして上梓が大幅に遅れて」(p.473)とあるのも宜なるかな。「お手伝いをねがった小泉淳二さん、美しい本に仕上げて下さった樋口至宏さん」(p.474)ともある。小泉は晩年の受業生、樋口は人文書院・鳥影社等で編輯者、奧附に「印刷・製本協力 鳥影社」とあり。