[投稿日] 2011-06-26
元が世界文學全集月報に連載されたものゆゑ、あっさり目でチト物足らぬ。
附論中「紙の発明と後漢の学風」が帛書から紙への移り變りと學藝の進展との關係を推考してをり、メディア論としてやや興あり。
目次 http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480836052/
[投稿日] 2011-06-26
元が世界文學全集月報に連載されたものゆゑ、あっさり目でチト物足らぬ。
附論中「紙の発明と後漢の学風」が帛書から紙への移り變りと學藝の進展との關係を推考してをり、メディア論としてやや興あり。
目次 http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480836052/
[投稿日] 2011-06-26
四部分類を成立せしめた「史部」が、ポイントになってゐる。川勝義雄『中国人の歴史意識』と併讀すること。著者は觸れてないが、「六經皆史」と斷じた章學誠の『文史通義』につなげられるだらう。つまり、本書と同樣にして新たな支那史學史が書かれることが望ましいが、なぜか目録學關係の著作者は文學研究者ばかりみたいで期待できない。
井波陵一「六部から四部へ――分類法の変化が意味するもの」(冨谷至編『漢字の中国文化』昭和堂、2009.4)に竝んで補ふ所あり。
井波陵一編『漢籍目録を読む』(〈東方學資料叢刊〉京都大學人文科學研究所附屬漢字情報研究センター、2004.3)は、内題では副題に「――実習(カード作成・データ入力)のために」とある通り、圖書館司書向け講習用の教本册子に留まり、讀むに及ばない。
[投稿日] 2011-06-23
「中国文献学大綱」「支那文献学大綱」が目當て。文獻學と言ふが、謂はゆる目録學だ。とはいへ分類するにも漢籍が讀めなくてはならぬとの考へから幾分か内容紹介を兼ねて支那學術史概論ともなってをり、吉川の中國思想・文學への見方は窺はれる。
東方文化研究所分類目録に基づく講義のうち、史部第十四書目類「四 書景之属」に、楊守敬が滯日中に作った「留眞譜」が書景の初めとある(p.80、p.133)。「書影」は存外古くからある眞っ當な漢語らしいと判る。
「そもそも支那人の著述は、後進者を導かんとするよりも、すなわち自分より劣った者に言葉を与えんとするよりも、むしろ自分よりすぐれた者に、みずからの到達しえた業績の批判を仰がんとするのが普通で、支那の学問、広くは文化が難解な性質を持つのは、ここに原因があると考える」(子部第二儒家類「四 家訓勧学郷約之属」p.142)。げに、切に乞ひたきは批正なり。
士と庶との別を説いた箇所が目に着く(「支那精神史序説」p.234、pp.260-261。「中国の社会制度」pp.338-339。「明代の精神」pp.358-359。「歴史的に見た現代中国文化とその将来」p.441-443)。「礼ハ庶人ニ下ラズ」と言ふが、士人ならぬ民間一布衣としては無禮で結構だ。なるほど、士大夫たる自負を有する吉川に水滸傳など庶民文藝を譯すのはチト無理なわけだ。但し、「わざと科挙を受験せず、処士として終始するものをも、生んだ」(「清という王朝」p.398)といふ邊りに考慮の餘地あらう。
「[……]この民族に於ては、言語は或いは実体以上にも重視されるのであり、その結果、言語科学は、この民族の科学活動の精華たる形を呈する。しかしその業績は、ほとんどみな注釈語学であって、具体的な作品の注釈である。「経」を始め古典に加えられた注釈は、まことに汗牛充棟も啻ならぬ。ところで、かく注釈の業が甚だ盛んであるに拘らず、辞典の業には比較的乏しい。単語の意味というものは、それぞれに中心となる方向をもちつつ、しかも実際の作品の中に現れる場合には、みなそれぞれに微妙な差違を示す。前者は言語の意味の統一する方向であって、その方向を追求するのが辞典であり、後者は言語の意味の統一せざる方向であって、その方向を追跡するものが注釈である。注釈に富んで、しかも辞典に乏しいということは、やはりこの民族の精神が、事物の統一せざる方向に敏感であり、その統一する方向にはむしろ冷淡であることを示す。」(「支那精神史序説」p.250)――譯註・語註等に辭書・事典から引き寫して事足れりとする輩は、註釋と辭典との違ひを辨へない愚物であるわけだ。個別に即くか一般に抽象するか。「すなわちこれらの注釈家は、劉宝楠はもとより、徂徠にしても、すでに何がしか字引を引いて、あるいは字引を引くのと同じような行為をして、つまりその単語が他に使われている場合を考えあわせて、その平均値を帰納するという行為をしてくれているわけです。[……]もっとも字引というものは、おのおのの単語の平均値的な水っぽい意味をしか記さないもので、必ずしも役に立つとは思いませんし、[……]少なくとも注釈を漁るほどには役に立たないと思いますが[……]」(「古典の読み方」pp.479-480)。
目次 http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480746412/
[投稿日] 2011-06-02
起しの鉤括弧だけあって閉ぢ括弧が無い脱字が目立った。
「14 軍服姿の鴎外」の假名遣論批判、「34 あたらぬも八卦」「35 似てい過ぎるよ」の大野晋による日本語のタミル語起源説への贊同、これらは著者に同意できない。カトリック信仰なんかは好き好きに信じてくれればいいことだが。
「10 腐儒」に述べる所は、むしろ山田忠雄からの批判の方を尤もに思った。「19 礼節」も一往尤ものやうだが、禮節を蹂み躙っても眞を追究するのが學者であるべきだと考へる者にとっては、「6 師弟」の橋本進吉批判を容れない態度は、小松英雄ならずとも失望させられるものだ。
土井忠生との確執もさることながら(「7 キリシタン研究」「32 森田武」)、「21 まことに驚き入ったる悪文」及び「33 学問に執する」pp.181-182の記述から龜井孝と中田祝夫との間には相容れぬものがあったやうに推測されるが、雙方の弟子と言へる小松英雄はどう思ってゐたのだらう。
豆知識――「この「翻字」という言葉は厳父[龜井高孝]の発案だということを、先生から常づね聞かされていた」(p.218)。
目次 http://www.musashinoshoin.co.jp/shoseki/view/1166/
[投稿日] 2011-06-01
哲學史を主題としながら、哲學者の非歴史性といふか歴史への鈍感ぶりを窺はせる一册となった。村井則夫「生の修辞学と思想史――ブルーメンベルクと『近代の正統性』――」(第4章)くらゐが例外か。それにしても思想家・哲學者に即した「人とその思想」形式が多くて、哲學史と稱するには歴史の流れを展望する視力に乏しい。一ノ瀬正樹「感覚的知識の謎――ロック認識論からするプロバビリティ概念の探究――」(第5章)なんか、ちゃんと歴史認識論につなげればもっと面白くなりさうなのだが。就中「過去的出来事の確率原理」に關し、量子力學における「波束の收縮」論が確率が確實性へと突然變化するのには觀察乃至觀測が關與すると見て、それを「瞬時の非連続的変化の機会」と表現したことにつき、「それはまるで、古典的な機会原因論者マールブランシュの語り方のように聞こえる」(p.190)と言ふ邊り、示唆深い。殊に、カール・シュミット『政治的ロマン主義』を歴史主義の潮流の中に置いて讀んだ者としては。小西善信「個物の問題」(第9章)も、近代は「個物の忘却史」(p.375)と斷ずる前に、なぜ近代史學に眼を向けなかったか。新カント派が「個性記述的 idiographic 」と呼んで歴史學の位置附けに苦心し、トレルチやマイネッケが歴史主義の原理として個性化を擧げたのは、アリストテレス以來「個物は曰く言ひ難し」とされる個物へと迫る試みであった筈。
目次 http://www.showado-kyoto.jp/book/b96715.html