吉川幸次郎遺稿集〈第1巻〉

筑摩書房 / 1995-10刊 / ¥9,228
讀了: 2011-06-23 文学・評論

[投稿日] 2011-06-23

 「中国文献学大綱」「支那文献学大綱」が目當て。文獻學と言ふが、謂はゆる目録學だ。とはいへ分類するにも漢籍が讀めなくてはならぬとの考へから幾分か内容紹介を兼ねて支那學術史概論ともなってをり、吉川の中國思想・文學への見方は窺はれる。
 東方文化研究所分類目録に基づく講義のうち、史部第十四書目類「四 書景之属」に、楊守敬が滯日中に作った「留眞譜」が書景の初めとある(p.80、p.133)。「書影」は存外古くからある眞っ當な漢語らしいと判る。
 「そもそも支那人の著述は、後進者を導かんとするよりも、すなわち自分より劣った者に言葉を与えんとするよりも、むしろ自分よりすぐれた者に、みずからの到達しえた業績の批判を仰がんとするのが普通で、支那の学問、広くは文化が難解な性質を持つのは、ここに原因があると考える」(子部第二儒家類「四 家訓勧学郷約之属」p.142)。げに、切に乞ひたきは批正なり。
 士と庶との別を説いた箇所が目に着く(「支那精神史序説」p.234、pp.260-261。「中国の社会制度」pp.338-339。「明代の精神」pp.358-359。「歴史的に見た現代中国文化とその将来」p.441-443)。「礼ハ庶人ニ下ラズ」と言ふが、士人ならぬ民間一布衣としては無禮で結構だ。なるほど、士大夫たる自負を有する吉川に水滸傳など庶民文藝を譯すのはチト無理なわけだ。但し、「わざと科挙を受験せず、処士として終始するものをも、生んだ」(「清という王朝」p.398)といふ邊りに考慮の餘地あらう。
 「[……]この民族に於ては、言語は或いは実体以上にも重視されるのであり、その結果、言語科学は、この民族の科学活動の精華たる形を呈する。しかしその業績は、ほとんどみな注釈語学であって、具体的な作品の注釈である。「経」を始め古典に加えられた注釈は、まことに汗牛充棟も啻ならぬ。ところで、かく注釈の業が甚だ盛んであるに拘らず、辞典の業には比較的乏しい。単語の意味というものは、それぞれに中心となる方向をもちつつ、しかも実際の作品の中に現れる場合には、みなそれぞれに微妙な差違を示す。前者は言語の意味の統一する方向であって、その方向を追求するのが辞典であり、後者は言語の意味の統一せざる方向であって、その方向を追跡するものが注釈である。注釈に富んで、しかも辞典に乏しいということは、やはりこの民族の精神が、事物の統一せざる方向に敏感であり、その統一する方向にはむしろ冷淡であることを示す。」(「支那精神史序説」p.250)――譯註・語註等に辭書・事典から引き寫して事足れりとする輩は、註釋と辭典との違ひを辨へない愚物であるわけだ。個別に即くか一般に抽象するか。「すなわちこれらの注釈家は、劉宝楠はもとより、徂徠にしても、すでに何がしか字引を引いて、あるいは字引を引くのと同じような行為をして、つまりその単語が他に使われている場合を考えあわせて、その平均値を帰納するという行為をしてくれているわけです。[……]もっとも字引というものは、おのおのの単語の平均値的な水っぽい意味をしか記さないもので、必ずしも役に立つとは思いませんし、[……]少なくとも注釈を漁るほどには役に立たないと思いますが[……]」(「古典の読み方」pp.479-480)。

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