[投稿日] 2009-10-29
一般的には惡くない本だらう。讀んで新知識は得られ、ためにはなった。が、趣味ではない。
[投稿日] 2009-10-29
一般的には惡くない本だらう。讀んで新知識は得られ、ためにはなった。が、趣味ではない。
[投稿日] 2009-10-29
表題からは判りにくいが、マーシャル・マクルーハンの弟子がウォルター・オングに獻げた小著。つまり文學論としてよりも、『グーテンベルグの銀河系』『声の文化と文字の文化』と共に讀まるべき本。メディア論的な精神史とでも言はうか、活字印刷が人間の思考や思想のあり方をどう變へたかがこの本の基底にある關心で、特に第二章のジェームズ・ジョイス論に組み入れられたといふ「書物としての書物」の論が刺戟的だった。活字人間たることを自任する者にとっては、我が事として思ひ當る評言が隨所に見られて、そこが面白い。
拙文「註(についての註)」に引いた。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/1959/notes/comment.htm
目次 http://www.miraisha.co.jp/np/isbn/9784624934224
[投稿日] 2009-10-29
時代(戰後)が好みに合はないことを差し引いても、面白くないと思ふ。
[投稿日] 2009-10-29
退屈。發見無し。
目次 http://www.shibunkaku.co.jp/shuppan/shosai.php?code=9784784214594
[投稿日] 2009-10-29
それぁ別號調べも一往すべきことではあるが、どうして柳北執筆分に限定して抽出したがるのかなあ。雜誌や新聞のコラムは集合知の産物なんだから、雰圍氣を味はふためにも全部載っけて、柳北らしきものだけ註記しておけばいいんだよ。脱亞論は福澤諭吉の書いたものでないとかの、個人全集收録範圍を切り詰める議論と同根だね。それと、これまでの「反近代」的柳北觀を是正して啓蒙主義者の面を強調する山本芳明の解説は穩當なのだらうが、面白くない。いっそ木村毅みたいに柳北は常識的不平家で凡俗の市井人に過ぎないと言ひ切るのだったら、話が彈むのに。
目次 http://www.perikansha.co.jp/Search.cgi?mode=SHOW&code=1000000908
[投稿日] 2009-10-29
現代の書籍流通問題への提言としてより、歴史研究書として讀んでやりたい。文獻目録が充實。
三版にて訂正八箇所とあとがきに補記あり。
「補記 本文中、開架・土間式書店で確認できた資料の時期を明治中期としたが、朝野文三郎『明治初年より二十年間 図書と雑誌』に、明治初期のこうした形式の店として、銀座三丁目の山政書店があげられている(同書六一頁)。
(二〇一〇年六月 著者記)」
目次 http://web.archive.org/web/www.koubundou.co.jp/books/pages/55128.html
http://www.koubundou.co.jp/book/b155860.html
http://web.archive.org/web/http://d.hatena.ne.jp/solar/20090812
http://web.archive.org/web/http://d.hatena.ne.jp/solar/20090924#p2
[投稿日] 2009-10-29
[投稿日] 2009-10-29
[最終更新] 2015-10-31
目次 http://d.hatena.ne.jp/kokada_jnet/20091029/p2
[投稿日] 2009-10-29
前身の『遊字典』(冬樹社、1984→角川文庫、1986.8)の方が、序文やコラムなどが充實してゐました。改題後は、凡例で出典を『明治文学全集』だと明記したのが取り柄ですが、氣取った序文「Prefaceのようなメッセージ」は「はじめに」に差し替へ、コラムは何本か削られました。古本で角川文庫版を探すことをお奬めします。その浦達也の解説はニュー・アカ・ブームの影響が濃厚で、時代色が窺はれて愉快です。
http://d.hatena.ne.jp/higonosuke/20070201#c1170614917
[投稿日] 2009-10-29
目次 http://honto.jp/netstore/pd-contents_0602735661.html
[投稿日] 2009-10-29
[投稿日] 2009-10-29
[投稿日] 2009-10-29
[投稿日] 2009-10-29
近世文人の風景批評が主題だが、裏テーマは歴史的に見た學問論・知識人論でもある。
學問(といふか學藝)論の一節――「学問が、同じことだが知識と言葉が、歴史的に眺めて、この社会で初めてそれ自体の価値と力量とを自覚して学に本来的な自律性の原理に生きることを開始した。[……]/といって、このことがただちに学問が実際の政治ないしは行政に用いられたことを意味するととるのは早計にすぎる。そもそも知識と言葉が、それがほんもの[四字傍點]であるならば、いわゆる実際社会において、政治や経済や軍事の領域で有効であるなどという保証はどこにもありはしないのである。たとえば、国家有用の学問というのは明白な形容矛盾にほかならず、事実は国家に有用であるとき、その学問は無邪気にも堕落している、つまり学ではない。無用性こそほんものの学の名誉の印なのだといっていい。」(p.377)
ついでに、讀書論・教養論の一節も。特に前半――「けだし教養とは自分一個の精神の成長に資するもの、清風[=十聲樓主人]のばあいには、町なかの雑音かしましい熱鬧に暮らしながら、その卑俗をきらって拒絶するのではなく、読書によって形成された生を間接化する力――生にたいしては本質的に暗示引用[アリュージョン、引喩]にほかならない読書から得られた知によって、卑俗も含めた生の直接性を捨象して、生全体を抽象化し観念化することによって、反転して生と世界とを全称的に肯定することのできる穆如たる心の作動――によって、喧騒と静寂また卑俗と風雅の即事的な差異を撥無して、世界の中に確固たる生の位置を占めうるまでに彼の精神を育てるものであるからである。」(p.247)
[投稿日] 2009-10-29
[投稿日] 2009-10-29
[投稿日] 2009-10-29
ドイツ法學の權威が定年近くになって現代思想へ踏み出した志向を示す論集。基本的に泰西諸説を綴り合せて調停しながら論を成し、自家獨立の識見は窺ひ難い。よく勉強してあって秀才らしく整理されてゐるものの輸入學問といふか飜譯的知性といふか。語學力無き菲才の身には要約紹介として役立つ。
「IV 歴史と偶然」は問題提起に留まって結論に及べなかったやうだが、材料は面白い。「歴史概念の変遷」に就きラインハルト・コゼレック『歴史基本概念事典』「歴史」の項目を紹介した上で、カントの歴史哲學にとって偶然性が問題となる所以をマンフレート・ゾンマーの解釋に從って考察したもの。
書き下ろし新稿「VI ヨーロッパの近代とポストモダン」も、人文主義的文化を論じて興味そそる。そこで使はれたスティーヴン・トゥールミン著はその後『近代とは何か その隠されたアジェンダ』と題して出た譯書で讀めるが、それ以上に著者に評價され、近代の辯神論について引證されるオード・マルクヴァルト『偶然性の弁護』が譯刊されぬものか……。せめても邦譯のある「人文科学の不可避性について」(中尾健二譯、『静岡大学教養部研究報告 人文・社会科学篇』29-1、1993.9#)をウェブで讀む。
# http://dx.doi.org/10.14945/00005159
本書全體を通し、ポストモダニズムに引き寄せて再評價されるロマン主義思想等は、掬すべきものありにせよ、今となってはドイツ特殊事情に偏した時論めいてしまって共感を興すまい。それよりも、合理主義や統一性に對する「偶然」「偶発性」をキイワードとして讀み直す方が面白い(卷末「索引」に立項あり)。――例へば、「II 近代化と合理主義・反合理主義」で引證されるロルフ・グリミンガーの論にクリスティアン・トマージウスが取り上げられてゐたが、法律家でもあったトマジウスが蓋然性論でも知られたことは偶然性に注意する觀點からは見逃せない筈。で、手代木陽『ドイツ啓蒙主義哲学研究――「蓋然性」概念を中心として』(二〇一三年)を讀むと……?
目次 http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2011/05/1992-34da.html
http://book.geocities.jp/studia_humanitatis_jp/newbooks2003.html
[投稿日] 2009-10-29
いまさら作家別單位の文學全集など構想しても始まるまいに、いい氣なものだ。
[投稿日] 2009-10-29
題材の割に今一つ。構成や文章を練り込めばもっと面白くなるのに。
[投稿日] 2009-10-29
大筋として「政治」性に關係づけてゆく論法はノンポリからすると強引さを感ぜざるを得ないが、細部の調べは髙島健一郎論文など以上によく突っ込んであるので、創見が拾へる。多分、これをもっと短縮して物語り化すると目も當てられなくなるだらうが、「はじめに」の問題意識や「あとがき」に記された高杉一郎への共感などによって、さういふ短慮の讀者が出ることは必定か。細部にこそ神は宿るのに……。歴史を取留め無い偶然の集散と見られずに意志や必然の働きを見たがってしまふ所で、難が出る。