[投稿日] 2009-10-30
年: 2009年(169件)
▼歴史の文体 小説のすがた―明治期における言説の再編成
[投稿日] 2009-10-30
七年經ってやっと安價で買へた。
目次 http://honto.jp/netstore/pd-worklist_0602971339.html
▼ふらんす 80年の回想―1925‐2005
[投稿日] 2009-10-30
▼孤高 国語学者大野晋の生涯
[投稿日] 2009-10-30
▼創刊の社会史 (ちくま新書)
[投稿日] 2009-10-30
▼日本語活字ものがたり―草創期の人と書体 (文字と組版ライブラリ)
[投稿日] 2009-10-30
▼秩序の方法―ケニア海岸地方の日常生活における儀礼的実践と語り
[投稿日] 2009-10-30
http://web.archive.org/web/20050420041242/http://anthropology.soc.hit-u.ac.jp/~hamamoto/lecture/2004win.html
▼マックス・ウェーバーにおける歴史科学の展開
[投稿日] 2009-10-29
歴史主義を問題にしたウェーバー自身に歴史主義的考察を適用することによってウェーバー思想の變化(つまりそれも歴史だ)を捉へてゐて、狙ひ所はいい。平明な文章も好感が持てる。ウェーバー屋さんに留まらずに、史的認識論や歴史學方法論に寄與してくれることを期待したい。
『マックス・ウェーバー 普遍史と歴史社会学』も見ること。
http://www.sociallibrary.jp/entry/4872622251/
目次 http://www.minervashobo.co.jp/book/b49453.html
▼身体としての書物 (Pieria Books)
[投稿日] 2009-10-29
目次 http://www.cafecreole.net/onbooks/
▼書棚と平台―出版流通というメディア
[投稿日] 2009-10-29
現代の書籍流通問題への提言としてより、歴史研究書として讀んでやりたい。文獻目録が充實。
三版にて訂正八箇所とあとがきに補記あり。
「補記 本文中、開架・土間式書店で確認できた資料の時期を明治中期としたが、朝野文三郎『明治初年より二十年間 図書と雑誌』に、明治初期のこうした形式の店として、銀座三丁目の山政書店があげられている(同書六一頁)。
(二〇一〇年六月 著者記)」
目次 http://web.archive.org/web/www.koubundou.co.jp/books/pages/55128.html
http://www.koubundou.co.jp/book/b155860.html
http://web.archive.org/web/http://d.hatena.ne.jp/solar/20090812
http://web.archive.org/web/http://d.hatena.ne.jp/solar/20090924#p2
▼辞書にない「あて字」の辞典 (講談社プラスアルファ文庫)
[投稿日] 2009-10-29
前身の『遊字典』(冬樹社、1984→角川文庫、1986.8)の方が、序文やコラムなどが充實してゐました。改題後は、凡例で出典を『明治文学全集』だと明記したのが取り柄ですが、氣取った序文「Prefaceのようなメッセージ」は「はじめに」に差し替へ、コラムは何本か削られました。古本で角川文庫版を探すことをお奬めします。その浦達也の解説はニュー・アカ・ブームの影響が濃厚で、時代色が窺はれて愉快です。
http://d.hatena.ne.jp/higonosuke/20070201#c1170614917
▼古本探究 2
[投稿日] 2009-10-29
[最終更新] 2015-10-31
目次 http://d.hatena.ne.jp/kokada_jnet/20091029/p2
▼古雑誌探究
[投稿日] 2009-10-29
[最終更新] 2015-10-31
▼アカデミック・ライブラリー 郷土史と近代日本
[投稿日] 2009-10-29
[最終更新] 2014-07-09
目次 http://asios-blog.seesaa.net/article/145140870.html
▼大学の誕生〈上〉帝国大学の時代 (中公新書)
[投稿日] 2009-10-29
▼瘠我慢の精神 福沢諭吉「丁丑公論」「瘠我慢の説」を読む (朝日文庫)
[投稿日] 2009-10-29
▼改造社と山本実彦
[投稿日] 2009-10-29
甘い。筆者を取り替へて書き直せ。
▼明治大正言論資料 (20) 明治新聞雑誌関係者略伝
[投稿日] 2009-10-29
『明治新聞雑誌関係者略伝』、奮發してやっと買ったが……早まったか。條野採菊(山々亭有人)みたいな初期新聞界の著名な人が立項されてないのは案外だ。それよりも有名人の項を見ると、なほ失望する。西田長壽はなぜこんなに遠慮しいしいでないと書かうとしないのだらう。しかしこの人名事典の本領は、他では引けない無名の人を拾へることにあるから、使ひこなすにはこちらに素養が要るだらう。その手懸りとクロス・レファレンスのためには、やはり索引つけてくれなくては。
http://www.msz.co.jp/book/detail/00950.html
▼西洋古典こぼればなし (同時代ライブラリー (238))
[投稿日] 2009-10-29
收録文中「音読と黙読――歴史上どこまで確認できるか――」は、書物史に關心ある者にとりて必讀なり(初出の註を省けるは遺憾なれど)。
また「二人の古典学者について」等、文獻學者A・E・ハウスマン(詩人としてではなく)に就ての所述が殊に興そそる。前著『語学者の散歩道』(研究社出版、1991)のハウスマン評と併せ讀まば更に興味増すべし。おゝ偉大なる學匠詩人ハウスマンよ……ホンマ難儀なお人やなあ。
この愛すべき畸人と對比せられるもう一人の古典學者ギルバート・マリや、延いてはマリが傾倒せしジェーン・エレン・ハリスンらケンブリッジ・リチュアリストへの批判には專門柄傾聽すべき言あり。附記して參照を請うてゐる「悲劇の起源は祭祀か」(『現代思想』一九七三年八月號)も、讀まいでおかれうか。本邦にても福田恆存から西郷信綱まで依據せる『古代藝術と祭式』が誤謬學説なりけりと知られる。
文體は平易にして考證癖を含みつつ自づから諧謔味を漂はすあたり、手に入ったもの。著者も自覺の上ならむ、師・田中美知太郎の著を英譯する話や「ラテン語版『クマのプーさん』など」は文體論として讀むも可なり。但し後者にて指摘せられたる通り、ラテン語はおよそ樣々なることが言ひ得るも中に言ひにくきこともあり(p.173)とせば、その傳にて同樣に、柳沼の文章は趣味あれどもこの文體にては論じ切れぬことも何かあるべし。それは何か?
拙文「校正癖 あるいはコレクトマニア綺譚」で參照した。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/1959/GS/correct01.htm#sec2
▼本を読むデモクラシー―“読者大衆”の出現 (世界史の鏡 情報)
[投稿日] 2009-10-29
淺い。さういふ讀者設定なのか?
フランスで瓦版に當るものはカナール canardとも呼ばれ、p.90以下に取り上げてゐるが、しかしそこで「「カナール」という名前自体、一九世紀になって付けられた蔑称」(97ページ)とするのは疑義あり、平井隆太郎「噂の病態――「新聞の鴨」について」(平凡社『月刊百科』一九八二年二月號「特集 噂」)はドイツの新聞學者に據って十六世紀から見られる用法としてゐた。canard(鴨)の語源説も、宮下が紹介するものより平井が述べるグリムの辭書の説の方がドイツ語Zeitungsente(新聞アヒル=誤報、虚報)との對照も含めて説得力があるやうに見受けるがどうか。
目次 http://www.tousuishobou.com/sekaishinokagami/503-9.htm