[投稿日] 2010-08-07
二卷合せて一本とした「新装版」が繰り返し出てゐる(1979.7→1997.1→2000.6)。『歴史の必然性』(一九六六年二月)も異版と言へよう。
Cf. http://www.msz.co.jp/book/detail/04974.html
[投稿日] 2010-08-07
二卷合せて一本とした「新装版」が繰り返し出てゐる(1979.7→1997.1→2000.6)。『歴史の必然性』(一九六六年二月)も異版と言へよう。
Cf. http://www.msz.co.jp/book/detail/04974.html
[投稿日] 2010-07-11
目次 http://www.seidosha.co.jp/index.php?%A5%B8%A5%E3%A5%C3%A5%AF%8E%A5%A5%C7%A5%EA%A5%C0
[投稿日] 2010-07-10
新裝版がMinerva21世紀ライブラリー 30として一九九六年七月刊。
http://www.minervashobo.co.jp/book/b47345.html
[投稿日] 2010-06-05
1.森 【2010-06-04 9:0】
編者の一人である坂元ひろ子著の『連鎖する中国近代の“知”』(研文出版、2009.11)がAmazonに情報無いため登録できぬ。cf. http://www.bk1.jp/product/03235517
2.kamiyam 【2010-06-04 9:0】
昨年からいつになったらAmazonに情報が登録されるのかと思っていましたが、いつまで経ってもされませんね。研文出版や柏書房はデータがごそっと抜け落ちているようです。売れない本は必要ないということでしょうか。
3.ekura 【2010-06-06 9:0】
Amazonと取引していないということではないでしょうか。岩田書院さんもたしか新刊ニュースの裏便りで言ってたと思いますが、抜かれるマージンがけっこう割高で、何千部も売れれば得になりますけど、何十冊単位でしか売れないちっちゃいとこだとキツいようです。
4.森 【2010-06-08 9:0】
やはりAmazon獨占状態はよくないなあ……などと言っても、部屋滿杯の藏書のうち新刊の定價で買った本が本棚一段分程も無い古本者の言葉では空しい。
目次 http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0253060/top.html
[投稿日] 2010-05-16
戴きもの。目次中、唯一食指が動く高田里惠子「嗚呼いやなことだ 自虐と倫理」は相變らず達者な筆で讀ませるものの、『グロテスクな教養』で教養主義の「いやったらしさ」を批判したのと結びつけて考へて貰ひたかった。私見では、「自虐」から釀される一種のユーモアを讀み取れるかどうかが高見順評のポイントになる筈で、多分そこが自罰・自責・自己批判等とは違ふのである。
目次 http://www.linelabo.com/han/no004index.htm
[投稿日] 2009-12-18
「特集 近代日本と宗教学−学知をめぐるナラトロジー」
http://www.perikansha.co.jp/Search.cgi?mode=SHOW&code=1000001470
[投稿日] 2009-11-29
[投稿日] 2009-11-27
[投稿日] 2009-11-26
[投稿日] 2009-11-25
[投稿日] 2009-11-25
[投稿日] 2009-11-25
[投稿日] 2009-11-25
目次 http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/9784766415520/
[投稿日] 2009-11-25
[投稿日] 2009-11-15
やっと安く買へた。讀みやすく、面白い。
ここでの民衆による「仁政」觀念に對する把握は、モラル・エコノミー論に「示唆をえた」もの(卷末「文献案内」pp.6-9)。幾分か經濟人類學的でもあるこの概念は批判もあって問題含みだが、市場制度に基づく政治經濟(學)に對抗する被治者側の「正当性」(p.53)(=正統性)論といふ意味では興味深い。眞に造反有理と言ふか、アナーキーな感情的暴發に見えてもそれなりに用意された理法があったわけ(人格的な「徳義」として語られるのが限界であれ)。I章「2 仁政と徳義――強者の責務――」參照、特に傳室鳩巣「不亡鈔」を引くあたり(p.49)は「封建契約」とは言ひ條いささか社會契約説にも近づくかの如し。
Cf. 『本に溺れたい』2010年4月19日「モラル・エコノミー Moral Economy を巡る若干の議論」http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2010/04/moral-economy-4.html
按ずるに。そも客分とは、「まったくの家臣や雇い人などでもなく、家族でもない」(『日本国語大辞典』)。自分の土地を持たぬ借地借家人であり食客であり寄寓者である。柳田國男「居候及び厄介」が取り上げたヤカヰ(家居)。したがって定住の豪農地主層(士族と違って財産選擧制を支持する改進黨系の「富裕な農民民権家」p.92)とは合致しないが、これが寄生地主・不在地主となって土着性を失ってゆけば、地域から遊離した客分になるだらう。徂徠の所謂「旅宿の境涯」。治者でさへ客分意識を脱し難かったこと(國替へ後の大名・武士の例、p.47)は松尾純子評が注目してゐた――「客分意識はなにも民衆の意識であるとは限らず,治者や富者の意識でもありえるのだ。」(『大原社会問題研究所雑誌』489〈書評と紹介〉、一九九八年八月、p.47)
Cf. http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/489/
民衆史の枠を外して考へ直してはどうだらう。「はじめに」で民衆以外の例に夏目漱石を引いた後、「しかし今回は、こうした自覚的に選択された客分意識は視野の外においておく」(p.16)と議論はお預けにされてゐた。然るに「おわりに」の結び近くになって、「今のわたし(たち)は、現前する国民国家の共同性に眼をつむることなく、しかもそこから不断に乖離するよう努める、いいかえれば自らの存在被拘束性に対峙しつづける、そんな自覚的・自律的な客分であることが求められているように思われる」(p.239)との見通しが告げられる。それを論ずるつもりなら、一つには、「III 国民化の回路」以下に敍述した流れから外れて「客分に自足した矜持を保」(p.196)ったままナショナリズムの一體感(對外問題や祝祭化や普選運動)にも同調しなかった事例(むしろ例外者にせよ)に就く手がある――例へば「逆にエリートのなかには秩序からの自覚的な逸脱や国家への懐疑も生まれる」(「IV 仁政のゆくえ」p.204)とか。さらには、民衆史そのものよりも民衆論の言説史・思想史に入る手もあらう。「「民衆」を論じる者が民衆でありえないのは自明だが、抜きがたい客分意識を共有するかぎりで、わたしは自分を民衆のはしくれと思いたがっている」(「おわりに」p.239)と自ら言ふ、そのやうな意識の系譜學。
民衆と共に政治への拘泥も自縛に見える。副題に「近代民衆の政治意識」とある通り「客分意識はたんなる政治的無関心ではない。「赤髭が威張ろうが、安穏に生活できればいい」という意識もまた、ひとつの政治意識である」(p.12)と斷じ「経世済民」の語を擧げて「近世民衆にとって、経済と政治ははっきり分けられるようなものではなかった」(「I 民衆にとっての〈政事〉」p.68)と述べるのだが、これでは客分を稱する態度が非政治性の表明である面が見落とされてしまふ。一部アナキストみたいに反政治的 antipoliticalとなるのみならず、そんな積極的な政治の排除よりも脱政治的 depoliticalとか無政治的 apoliticalあたりか(丸山真男「政治的無関心」『政治学事典』平凡社、參照)。鼓腹撃壤、帝力我に何かあらんや。また本書で國學は「仁政と客分を否定する論理」に使はれたことで取り上げられるが(pp.76-78)、松本三之介『国学政治思想の研究』が説いた國學における被治者の非政治性と併せ見ると如何。
http://homepage3.nifty.com/tanemura/re2_index/M/makihara_norio.html
[投稿日] 2009-11-11
目次 http://www.sangensha.co.jp/allbooks/index/125.htm
[投稿日] 2009-10-30
[投稿日] 2009-10-30
[投稿日] 2009-10-29
[投稿日] 2009-10-29